【はじめに】
もはや細かな説明は不要であろう、旧ナチスドイツの悪名高き独裁者《アドルフ・ヒトラー》。
第一次大戦敗戦後、彼は国内各地で巧みな弁舌をふるいながらその歪んだ思想をドイツ国民に植え付け、やがては権力を一手に握る総統の地位にまでのし上がりました。
多くのドイツ国民はそんな彼に洗脳され、心酔し、彼に絶対的忠誠を誓う狂気の集団「ナチス親衛隊(SS)」なるものまで組織されたわけですが、やはり自分を見失わぬ “マトモ” なままの人間も中には存在し、《ヒトラー》は自国民からもたびたび “暗殺” の標的とされました。
なんと《ヒトラー》が権力の座について以降、わかっているだけでも 40 以上の暗殺計画や暗殺未遂があったとされています。
で、今回ご紹介するのは、その中でも特に大規模、かつ、超有名な暗殺(爆殺)未遂事件たる【7 月 20 日事件】なるものと、事件のハイライト部分を忠実に描いた《トム・クルーズ》主演の映画【ワルキューレ】。
というか、事件の一部始終を事細かく活字で説明しようとすれば、恐ろしく長文 & ワケわからんくなるのは必至なので、本記事においては全体像がそれなりに掴める程度でしか記しておりません。
なので『もっと詳しく知りたい!』てな方は DVD なり VOD(動画配信サービス)なりで映画の方をじっくりご覧頂き、なおかつ Wikipedia あたりを熟読して頂ければと思います。別名、手抜きとも…
とりあえず、映画のデキや面白さに関しては申し分なく、《トム・クルーズ》の軍服姿もファンの方は必見!
余談ながら…
世界的にも人気の高いドイツの高級紳士服ブランド【Hugo Boss(ヒューゴ ボス)】。
その創業は 1923 年で、ナチス時代には親衛隊や国防軍の制服生産も主に手掛けていました。
ナチ将校の軍服に魅了される男性は今も多いようですが、そういった方にはピッタリのブランドかもしれませんね。
公式サイトの日本人モデルはちょい微妙ですが…
なお、以前当記事を執筆する予定が、つい横道にそれて書いてしまった以下記事も気になるようであれば是非ご覧あそばせ。(苦笑)
最も有名なヒトラー暗殺未遂事件【7 月 20 日事件】
前述のごとく、狂人《ヒトラー》を暗殺しようとした計画は国内外に多数存在したとされますが、【7 月 20 日事件】があまりにも有名なのは、やはり自国ドイツ軍の、しかもトップクラスの幹部が多数名を連ねて行われた、大規模、かつ、手の込んだ計画だったからに他なりません。
『《ヒトラー》の命さえ奪えればいい』といった単純なものではなく、ナチ幹部の逮捕・SS(親衛隊)やゲシュタポ(秘密警察)の解体・新政権樹立・英米との講和・戦争終結・ドイツの抜本的立て直し、といった後々のことまでがすべて練りに練られた計画だったので、これを成功させるためには必然的にあらゆる立場の多くの人間が必要とされました。
この事件が失敗に終わった後は、当然のごとく SS やゲシュタポによる大々的な粛清がなされましたが、事件に直接関与していない者も含めると、逮捕された反ナチス主義者は総勢 7000 人近く(内約 200 人が処刑されたとされる)もいたとされ、このことからもその規模の大きさが見て取れます。
何と、あの有名な国民的英雄、「砂漠の狐」こと《エルヴィン・ロンメル》陸軍元帥(写真参照)も事件に関与した疑いが持たれ、あげく、服毒自殺を半ば強要されこの世を去りました。
《ロンメル》が暗殺計画に何らかの関与をしているとの疑いは濃かったが、確実な証拠は得られなかった。
これらの情報は《ヒトラー》に伝えられたが、《ヒトラー》は《ロンメル》の関与を確信し、もっともお気に入りであった将軍を葬る決心を固めた。
ただし、最後の慈悲として、裁判にかけられて惨めな思いをしたあげくに処刑されるか、英雄の名を保ったままで自決するか《ロンメル》自身に選ばせてやることとした。Wikipedia より抜粋
クーデターグループの誕生から《シュタウフェンベルク》大佐の参入まで
【7 月 20 日事件】において、《ヒトラー》爆殺の現場責任者たる男が、まさに映画【ワルキューレ】で《トム・クルーズ》が演じるドイツ国防軍大佐、《クラウス・フォン・シュタウフェンベルク》なる人物。(写真参照)
どことなく高貴な雰囲気の顔とお名前ですが、実際彼は「伯爵」の爵位を持つ “貴族” でもありました。
「国内予備軍参謀長」のポストを得て以降《ヒトラー》に近付ける機会が増え、またアフリカ戦線での被弾で体に大きな障害(片腕や片目の喪失など)を負っていて周囲の警戒心も緩かったことから、実際に暗殺に手を下す最も危険な役割を彼が担うこととなりました。
貴族の “爵位” は一般的に「五等爵」などとも呼ばれ、序列は上から⦅公爵(こうしゃく)⇨ 侯爵(こうしゃく)⇨ 伯爵(はくしゃく)⇨ 子爵(ししゃく)⇨ 男爵(だんしゃく)⦆とされています。
なので《シュタウフェンベルク》氏は中堅どころの貴族って感じでしょう。
映画【ワルキューレ】では《シュタウフェンベルク》大佐が暗殺メンバーに参入してから 逮捕・処刑 されるまでの短い期間(1943 年 ~ 1944 年)が主に描かれていますが、クーデターのグループや計画自体はそれ以前より存在していました。
てことで、映画では描かれていない “《シュタウフェンベルク》がチームに加わるまでの背景や経緯” をまずは簡単に記しておきましょう。
発端はドイツのチェコ侵略
《シュタウフェンベルク》大佐がチームに加わる約 5 年前の 1938 年、ドイツは密かに力を付けてきた軍事力をバックに、隣国チェコの一部(ズデーテン地方)を無理やり併合してドイツの支配下へと組み入れました。
これは当然にヴェルサイユ条約(第一次大戦敗戦後のドイツに連合国より突き付けられた超厳しい制約の数々)に違反し、周囲の国々を激怒させる行為であることは間違いなく、ドイツの将来を危惧した一部の国防軍幹部が、『狂ったナチ政権を葬って周辺国との良い関係を取り戻そう!』と結束したのが当計画の始まりだとされています。
分かりやすく言えば、
『イギリスとフランスはこのまま黙ってはいない。彼らに滅ぼされる前に自分たちの手で《ヒトラー》を何とかしよう!』
てな感じでしょうか。
ちなみに当初は “逮捕” だの “拘禁” だの、殺害以外の方法もいくつか検討されていたようで、時限爆弾による暗殺計画は後から考え出されたもの。
が、予想を反し、“弱腰 & 事なかれ主義” で有名な当時の英首相《チェンバレン》の提案によって、何とドイツのチェコ侵略が戦勝国の間で黙認される(ミュンヘン会談におけるミュンヘン協定)に至り、そのため大義名分を失った当初のクーデター計画は中止せざるを得なくなりました。
少し分かりにくいですが、下地図の「5」がチェコで、「1」の部分(チェコの西側外周)がドイツに無理やり乗っ取られたズデーテン地方になります。
ミュンヘン会談終了後に《チェンバレン》は何度も大きなあくびをしたらしく、チェコ国民の怒りたるや察するに余りあります。
で、一度中止されたクーデター計画が再び持ち上がったのは、その約 5 年後の第二次大戦末期、ノルマンディー上陸を果たした英米軍と、破竹の勢いで侵攻してくるソ連軍とに東西から挟まれ、ドイツの敗戦が色濃くなってきた頃合い。
元は母国ドイツに忠誠を誓っていた《シュタウフェンベルク》大佐も、《ヒトラー》& ナチスの狂気に満ちた数々を目の当たりにしてきたことから、いつしか《ヒトラー》& ナチ政権打倒を叫ぶようになっており、彼が暗殺チームに名を連ねたのもちょうどこの時期(1943 年)でした。
ちなみに、【7 月 20 日事件】に絡む反《ヒトラー》のグループは「黒いオーケストラ」などとも呼ばれますが、これは当人たちが付けたものではなく、ナチスのゲシュタポ(秘密警察)によって付けられた呼び名だそうです。
狂気の一例 ナチス記録映像より
《ヒトラー》の暗殺はなぜ失敗した?
敗戦直前まで執拗に続けられたという【7 月 20 日事件】絡みの裁判や処刑は、見方を変えれば、事件が《ヒトラー》を恐怖のどん底に陥れたことの表れでもあり、実際、事件当時《ヒトラー》のすぐ近くにいた側近の数名は仕掛けられた時限爆弾により死亡しています。
そんな中、《ヒトラー》が軽傷で済んだのは、やはり彼の持ち合わせた “強運” によるところが大きかったとはされていますが、いくつかの原因のひとつには、爆弾セット役《シュタウフェンベルク》大佐の痛恨なるミスもあったと言われています。
【暗殺失敗原因その1】 突如変更された会議の場
完全密閉された地下の室内であれば爆風の逃げ場がなく、少しの爆薬でも最大限の威力を発揮できる。
準備された爆弾はそれを計算に入れた上での爆薬量だったので、“爆風の逃げる部屋” への変更で殺傷能力が大きく下がることとなった。
【暗殺失敗原因その2】 突如変更された会議時間
当時使われた時限爆弾は時限装置のセットに少々手間取るもので、会議の開始が突然早められたことによって2個のうち1個の爆弾しかセットができなかった。
専門家曰く、『爆弾2個だったならおそらく会議室の全員が死亡していたであろう』
とのこと。
【暗殺失敗原因その3】 偶然移動された爆弾カバン
テーブルの脚の内側から外側に移動させただけのことだが、その脚が盾となって《ヒトラー》への爆風の直撃が免れた、とされている。
【暗殺失敗原因その4】 カバンに入れなかった未セットの爆弾
抱き合わせにしておけば1個の爆弾が爆発すればもう1個の爆弾も誘爆されるはずで、爆弾2個なら全員死亡したであろうことは前述の通り。
この些細なミスさえなければ全てがうまくいったのでは、などとも言われている。
事件現場の「ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)」っどんなとこ?
ヴォルフスシャンツェ(狼の巣) とは、第二次世界大戦中に《ヒトラー》が設けた要塞化された指揮所のひとつである。
建設された場所は現ポーランド領の深い森の中で、周囲は 50m から 150m の幅の地雷原に囲まれ、有刺鉄線は 10㎞ に達し、面積は周囲の森林地帯を含め 8 平方 ㎞ に及んだ。
施設には居住棟、厚生棟(食堂・娯楽室・映画館など)、管理棟がおよそ 40 棟、コンクリート製の大型ブンカー(掩蔽壕(えんぺいごう)= 爆弾退避所)が 7 棟、小型のものが 40 棟あり、鉄道引込線と滑走路も2ヵ所あった。
警備する将兵は 1944 年時点で約 2,000 名にも達したとされる。
ベルリン陥落のおよそ3ヵ月前、ソ連軍が東プロイセンに侵入した際、ヴォルフスシャンツェのすべては 12 トンの爆薬を使ってドイツ軍により爆破された。
周辺は未処理の地雷が多数残されていたことから一般人の立ち入りは長く禁止されていたが、ポーランド政府による地雷処理は 1955 年にて終了。
現在、ヴォルフスシャンツェ跡はケントシン市最大の観光名所となっている。参考:Wikipedia
【参考動画】ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)
〖Poland. Hitler’s bunker. (Wolf’s Lair, Wolfsschanze)〗
裁いたのは “死刑大好き” ナチス人民法廷裁判長《ローラント・フライスラー》
“カギ十字” の垂れ幕がデカデカと掲げられた法廷で、ナチスの飼い犬裁判長《ローラント・フライスラー》(写真参照)が被告たちに金切り声で罵声を浴びせるシーンはつとに有名ですが、顔写真だけでもこの上ない不快さを感じるのはワタクシだけでしょうか。
意外にも、“共産主義者” だった前歴から《ヒトラー》に疎んじられ、また「不潔な役者」や「異常者」などと呼ばれ党幹部の多くからも嫌われていたそうな。
【7 月 20 日事件】の首謀者の一部は死刑執行時の長く苦しむ姿を《ヒトラー》に “鑑賞” させるため、録画されながら “ピアノ線” で首を吊るされたとされています。
【7 月 20 日事件】の裁判 ナチス記録映像より
次から次へと死刑判決を量産した《ローラント・フライスラー》も、最後は米軍の空襲により瓦礫の下敷きとなって死亡。
裁判書類を抱えたままの死体で発見されたそうです。
彼の死を確認した医師は、皮肉にも彼に死刑判決を下された者の兄だったとか。
【参考動画】(実際の裁判映像 / ドイツ語)
〖Roland Freisler – Präsident des Volksgerichtshofes〗
《ヒトラー》暗殺後の理想的筋書きと実際の結果
想定していた暗殺後の筋書き
想定外に終わった実際の結果
「ワルキューレ作戦」って何?
映画のタイトル【ワルキューレ】とはこの「ワルキューレ作戦」からとられたもので、【7 月 20 日事件】を語るにあたっては避けて通れぬ最も重要な作戦名。
クーデター計画の成否は、この作戦が予定通り事を運ぶかどうかに全てがかかっていたのです。
「ワルキューレ作戦」の本来の内容を簡単に言えば、
〚ドイツ国内で外国人等による反乱などが発生した場合に、その鎮圧・平定等を目的として国内予備軍に発せられる緊急命令〛
てな感じでしょうか。
が、《シュタウフェンベルク》らクーデターグループは、この既存システムを “《ヒトラー》暗殺後のナチ幹部の逮捕や各施設の占拠等に利用できる” と考え、自分たちに都合のいいように内容を修正したうえ《ヒトラー》の承認を得ることに成功しました。
しかし、「発動命令」を出す権限は “どっちつかず” の態度を決め込んでいた国内予備軍トップの《フロム》上級大将にしかなく、すったもんだのあげく最終的には権限なき者(《クイルンハイム》大佐)によって強引に発動されました。
「ワルキューレ作戦」による出動 映画【ワルキューレ】より
【7 月 20 日事件】のキーマンたち
【クーデター側】
《ルートヴィヒ・ベック》元陸軍上級大将 (元参謀総長)
〚人物像 等〛
以来、《ベック》は《ヒトラー》とナチ党組織の両方を政府から排除する必要があると考えるようになり、クーデター計画の主要な指導者となる。
《ヒトラー》の暗殺が成功すれば新生ドイツの国家元首(大統領)になるはずであったが、計画は失敗に終わり事件当日に逮捕。
直後、《ベック》は《フロム》に拳銃を要求し、その場での自決を許されたが、手が震えて二度にわたり失敗したことから最後は側にいた兵士によって射殺された。
ちなみに逮捕者《フロム》は《ベック》の元部下。
《エーリッヒ・フェルギーベル》陸軍大将 (最高司令部通信部門責任者)
〚人物像 等〛
事件当日は「狼の巣」において通信回線の切断を試みたが失敗。
暗殺が未遂に終わり、《ヒトラー》の生存を確認すると、隙を見てベルリンの国内予備軍司令部に総統が生きていると直接電話連絡した。
事件直後に逮捕され、裁判で死刑を宣告されたが、ゲシュタポの方針転換(すぐには殺さず拷問等でより多くの陰謀加担者についての情報を得る)により刑の執行は約 1 か月間延期された。
《フリードリヒ・オルブリヒト》陸軍大将 (国内予備軍一般軍務局局長)
〚人物像 等〛
さらには、警備が厳重でメンバーの誰もが近付けなかった《ヒトラー》の元に彼が近付けるよう、裏で手を回して「国内予備軍参謀長」のポストにも据えた。
副官の《クイルンハイム》大佐と共に「ワルキューレ作戦」を利用した国内予備軍の動員を画策したが、計画は失敗し、上官の《フロム》上級大将によりその日のうちに逮捕 & 即決裁判により死刑を宣告され、その直後、《シュタウフェンベルク》大佐らと共に国内予備軍司令部の中庭において銃殺された。
《クラウス・フォン・シュタウフェンベルク》陸軍大佐 (国内予備軍参謀長)
〚人物像 等〛
《ニナ》は夫の様子が妙である事に気づいたが、『お前は知らない方がいい』と言われ詳しい内容は聞かされなかったという。
事件後、ナチス政府の憎しみはレジスタンスの中でも特に貴族に向かい、その憎しみが最も向けられたのが《フォン・シュタウフェンベルク》伯爵家であった。
親衛隊トップ《ハインリヒ・ヒムラー》は、伯爵家に連なる者を徹底的に逮捕するよう命じ、伯爵家の財産はすべて没収され、《ニナ》は強制収容所に、子供たちはナチスの養護施設に送られたが処刑だけは免れた。
だが兄の一人は反ヒトラーグループに参加していたため事件後すぐさま逮捕され、死刑判決を受けたその日のうちに “ピアノ線” によって絞首刑に処された。
戦後になり、《シュタウフェンベルク》は英雄として賞賛され、国内予備軍司令部のあったベントラー街は「シュタウフェンベルク街」へと改名され、そこに記念館も開設された。
『昔ながらの伝統的な戦士のイメージ。私は《シュタウフェンベルク》のことをほとんど知らなかったが、片目を黒の眼帯で隠し、片袖の腕は失われているものの、堂々と背筋を伸ばし、振り向いた《ヒトラー》をまっすぐ見据えて立つ姿は誇り高く、まさに当時のドイツ参謀将校のイメージそのものだった』
とは当時事件現場にいた某陸軍大将の弁。
《アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム》陸軍大佐 (オルブリヒト大将副官)
〚人物像 等〛
《シュタウフェンベルク》大佐とも 1925 年以来からの気の置けない友人である。
1943 年 9 月以降、《クイルンハイム》は本格的に《ヒトラー》暗殺計画に関与するようになり、《シュタウフェンベルク》大佐や《オルブリヒト》大将らと共に「ワルキューレ作戦」をクーデターに利用するため作戦内容の修正を行った。
事件当日、暗殺成功の連絡が届かず生死の情報が錯綜していたベルリンでは上官《オルブリヒト》が「ワルキューレ作戦」の発動を躊躇していたが、待ちきれず、業を煮やした《クイルンハイム》は独断で発動命令を発出した。
(本来《オルブリヒト》大将にも《クイルンハイム》大佐にも発動権限はないため形式上は《フロム》上級大将からの発令である)
事件当日に逮捕され、《シュタウフェンベルク》《オルブリヒト》《ヘフテン》らと共に国内予備軍司令部の中庭ですぐさま銃殺された。
《ヴェルナー・フォン・ヘフテン》陸軍中尉 (シュタウフェンベルク大佐副官)
〚人物像 等〛
第二次世界大戦が始まると予備役中尉としてドイツ陸軍に入隊し、《シュタウフェンベルク》大佐の副官となって以降は 逮捕・処刑 されるまで《シュタウフェンベルク》と一心同体の存在。
逮捕後、銃殺の順番が《シュタウフェンベルク》に回ってきた際、彼の前に庇うようにして立ちふさがり、先に射殺されたと言われている。
《ヘフテン》らの遺体は制服と勲章を着けたままベルリン市内の教会に埋葬されたが、翌日、捜査・逮捕 を指揮するためやってきた親衛隊トップ《ヒムラー》の命により遺体は掘り起こされ、制服と勲章を剥奪された上で焼却され、遺灰は野に撒き散らされた。
のち、兄《ハンス》も計画に加担したとして逮捕され、刑務所内にて絞首刑に処された。
【立場不明】
《フリードリヒ・フロム》陸軍上級大将 (国内予備軍司令官)
〚人物像 等〛
爆殺作戦が決行されたのち、上司《カイテル》元帥からの電話連絡で、《ヒトラー》が生きていることを知らされた《フロム》は、「ワルキューレ作戦」の発動を要求してくる《シュタウフェンベルク》らに対し、これを拒否したうえ、さらには自決をも命じた。
最終的に《フロム》は彼らを逮捕し、即決裁判でその日のうちに銃殺刑に処したわけだが、これは自分が共謀者として疑われることを避ける目的もあったのでは、とも言われている。
が、結局はこの行為は逆効果で、《ヒトラー》は《フロム》が首謀者らを「安易に」処刑したことに激怒し、自身のクーデター加担が発覚しないよう「口封じ」したのではとの強い疑念を持つに至った。
結果、《ヒトラー》の命令により《フロム》は逮捕 & 軍籍を剥奪され、軍法会議ではなく一般市民として《フライスラー》の人民裁判を受けさせられたわけだが、《フロム》が暗殺計画に加担していたことは最後まで立証されず、「敵に対する臆病」というムリヤリ的な罪状により某拘置所内にて銃殺刑に処された。
【ヒトラー側】
《オットー・エルンスト・レーマー》陸軍少佐 (国内予備軍ベルリン大隊指揮官)
〚人物像 等〛
少佐に昇進後、東部戦線で重傷を負ったことから 1944 年に大隊指揮官としてベルリンに転属となり、そこで【7 月 20 日事件】に遭遇。
「ワルキューレ作戦」では、《レーマー》少佐の大隊が SS やゲシュタポの本部庁舎など主要施設を封鎖する手はずになっており、最初は予定通りに行動したが、逮捕する予定だった《ゲッペルス》宣伝大臣の取次ぎで《ヒトラー》の “ナマ” の声を電話で聞かされ、同時に反乱軍の鎮圧をも命じられたことからすべてが一転することとなる。
《レーマー》少佐はこれにより二階級特進で大佐に昇進した。
“英雄” としてさらに出世するも、その後の戦況の悪化でソ連軍に包囲された《レーマー》は西方に脱出してアメリカ軍の捕虜となり、戦後イギリス軍に引き渡されたのち、1947 年に釈放された。
1952 年、《レーマー》は《ヒトラー》暗殺計画の参加者たちを「国家反逆者」と表現したため懲役 3 か月の判決を受けたが、国外に逃亡し、エジプト大統領やシリアの軍事顧問を長年務めた。
晩年は、某言論活動から再びドイツに追われる身となり、スペインへと逃亡し、スペイン政府に庇護されながら 1997 年にその地にて死去。(享年 85 歳)
24 カットで “何となく” 分かる事件の流れ
映画【ワルキューレ】予告より
映画【ワルキューレ】 DVD・Blu-ray のご案内
VOD(動画配信サービス)各社のご案内
別途ご自身にてご確認下さい。
(※ 2023 年 11 月時点、「U-NEXT」においては見放題作品の一つとして提供されています)
映画【ワルキューレ】 予告ムービー
オススメ書籍【ヒトラー爆殺未遂事件 1939】のご案内
【あらすじ by Amazon】
1939 年 11 月 8 日、21 時 20 分、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で時限爆弾が爆発し、8 名死亡、63 名負傷した。折しもヒトラーがミュンヘン一揆の記念演説を例年よりも早く終え、会場を去ったわずか 13 分後だった。同日、スイス国境で男が逮捕された。彼こそヒトラー爆殺未遂犯、36 歳のエルザーだった。
エルザーは、1944 年ヒトラー爆殺に失敗した国防軍将校シュタウフェンベルクと異なり、貴族でもエリートでもなかった。犯行を自白したが、共産党組織に名前だけ属していただけの「イデオロギーなき」人物で、その背後にはいかなる組織、共犯者、支援者もなかった。しかしナチの目論見は、エルザーを「英国スパイ」としてプロパガンダに利用し、戦後に見世物裁判を開くことだった。
本書は、独のノンフィクション作家が、エルザーの人格と行動を、丹念な取材と最新研究に基づいて見事に再現し、近年の歴史的位置づけにも言及する。
【著者について by Amazon】
大学でグラフィックデザインを学び、その後はジャーナリストとして活動。
雑誌「ジャーナル・フランクフルト」の編集者となり、後に編集長を務める。
ヒトラーとナチスドイツおよび戦後ドイツの過去との取り組みを検証するものを中心に、20 冊を超える書籍で知られる。
本書は彼の代表作であり、ドイツ語圏だけでなく英米での評価も高く、これまで世界 14 の言語で翻訳され出版されている。
コメント