【はじめに】
上の写真、ある程度ご高齢の方は見た瞬間誰なのかお分かりでしょう。
が、すでに故人でもあり、若年層による認知度は低いのではないでしょうか。
写真の主は元帝国陸軍少尉の小野田寛郎(おのだひろお)氏で、1974 年 にフィリピンにて撮られたもの。
眼光鋭いその表情はけっしてカメラを意識した作り物などではなく、この時の彼にはまだ “大日本帝国陸軍将校” としての熱き血がグツグツとみなぎっていたからに他なりません。
「え ?? 戦争って遥か昔に終わったのでは ??」
とワケの分からぬヒトもいらっしゃるでしょう。
「捕虜になろうが一人っきりになろうが必ず生きて戦い続けろ」
と洗脳されていた彼に “敗戦” だの “終戦” だのを受け入れる余地などはなく、フィリピン ルバング島のうっそうとしたジャングルに潜みながら、なんと戦後約 30 年もの長きに渡ってひたすら “お国のため” に戦いを続けてきたのでした。
そう、この写真が撮られるほんの直前までです。
そして、彼のその “精神” を作り上げたのが、市川雷蔵主演の映画でも有名な「陸軍中野学校」でした。
てなわけで、今回は故 小野田寛郎元少尉の人物像と併せ、わが国唯一といわれるスパイ養成機関「陸軍中野学校」なるものをご紹介。
「陸軍中野学校」とは
個人的にはいつぞや市川雷蔵主演の映画【陸軍中野学校】を見たことによって同校のことを知ったのですが、事実をもとに製作されたとのことで、
「日本にもこんな組織があったのか !!」
と、ただただ驚きました。
自分の中では “スパイ=海外のもの” といったイメージしかなかったためです。
タイトルの “学校” というワードから勝手に “戦時中の青春映画” か何かだと思って見ただけになおさらショッキングでした。
その実は、“諜報(ちょうほう)・謀略(ぼうりゃく)・防諜(ぼうちょう)” のプロを育て上げる旧帝国陸軍の極秘機関だったのです。
当然当時は陸軍の中でも一握りの人間にしか知らされていない超秘密の組織でした。
「スパイ 1 人= 1 個師団(1 ~ 2 万人程度の兵力)に匹敵」とまで言われたようですが、師団長レベル(中将レベル)の給金はさすがに貰ってなかったと思われます。
たぶん…
ところで皆さんは軍隊の「階級」ってある程度ご存知でしょうか ?
「少尉」だの「中将」だのと言っても分からない方は分からないでしょうから、参考がてら旧日本陸軍の階級を下に貼り付けておきます。
古今東西どこの軍隊も似たような感じでしょう。
左上が上位、右下が下位で、「士官学校」(自衛隊でいうなら防衛大学)など主にハイレベルな軍事教育を受けた若者は基本「少尉」(自衛隊でいう「三尉」)から現場スタートとなります。
「少尉」以上の軍人は “士官” や “将校” などとも呼ばれ、広く「幹部」といった場合はこの人達。
“旧帝国陸軍” では階級がひとつでも上なら天皇の代弁者、すなわち “神” です。
「陸軍中野学校」の教育目的や教育内容 等
太平洋戦争の 開戦前 ⇨ 開戦 ⇨ 戦況悪化 の流れの中で「陸軍中野学校」の教育内容等も大きく変化したようですが、当初の主な教育目的は、全くの別人を作り上げて “諜報・謀略・防諜” のプロフェッショナルを育成すること。
“諜報・謀略・防諜” とは簡単に言えば、国内外において各種情報を収集し(諜報)、それを操作活用して相手をかく乱し(謀略)、敵の諜報や謀略を探知して逆利用する(防諜)、などといったものです。
脈のありそうな若者を見定めると、本人達に詳細を知らせぬままある日いきなり風変わりな面接をし、“適格” と判断すれば有無を言わさず入校させ、当時模範とされた “肉食系大和男児” とはかけ離れた “草食系インテリ男” に仕立て上げるためのありとあらゆる教育が施されました。
どこの国、どんな職業にもスッと溶け込めるスマートな雰囲気と知性がスパイ活動上必要不可欠だったからです。
髪を伸ばし軍服も着ず、仲間内においては当時 “敵性語” として禁止されていた「英語」での会話は逆に推奨され、ギャンブルや女遊びも世俗を学ぶため推奨され、普通なら即憲兵隊に捕らえられ罰せられたであろう “天皇制の是非について” の議論なども「大いに結構」だったそうで、これもひとえに欧米流民主主義の “自由人” をごく自然体でふるまえるよう考慮されたものでした。
中野学校での教育は多岐(外国語、薬物学、法医学、軍事学、気象学、心理学、爆弾製造、偽造紙幣製造…etc)に渡り、忍術やスリの達人からもそのワザを学んだとか。
武術は当時主流であった柔道よりも “一撃必殺” の「合気道」に重きが置かれたそうです。
中野学校は周囲への偽装上「東部第 33 部隊」と呼ばれていました。
学生達も当然のごとく入校と同時に幽霊のごとき存在とされ、恋人はおろか、実の親にさえ身分を明かすことは許されません。
里帰りした際、軍人にあるまじき “長髪” 姿の息子を戒める親に対して言い訳するのも大変だったとか。
本名も経歴もすべてが書き換えられた彼らは、あらゆる特殊技能を身にまとい、卒業とともにまったくの別人として世界各地へと送り込まれました。
「陸軍中野学校」卒業生の末路
一人の力が師団並みとされた陸軍中野学校の卒業生…
“最期はいさぎよく自決” が主流だった当時ですが、彼らには絶対許されず、どんな屈辱を味わおうが可能な限り生き延びて隠密活動を続けることが使命とされていました。
これは「陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校」の設立以降、主目的が “ゲリラ戦教育” に変わってからも同様で、小野田氏もここで “洗脳” されたことを粛々と実行していたにすぎなかったのです。
戦争が開始され、敗戦が色濃くなって以降は小野田氏のように戦略上重要な島々などで義勇兵を組織したり住民を煽動するなどといった活動に重きが置かれるようになります。
「中野学校本校」も 1945 年の東京大空襲を機に施設を群馬県に移し、「二俣分校」同様 “ゲリラ戦教育” へとその内容が変更されました。
久米島(くめじま)や伊是名島(いぜなじま)など沖縄の離島などでは中野学校出身者による住民虐殺など残虐行為の記録もチラホラ残っているようです。
国を挙げての “英雄報道” に隠れがちだったようですが、小野田氏もジャングル生活においては無実の民間人約 30 名を殺害したとされています。
物資を奪った後の通報防止、などなど小野田氏にとっては何かしらの “正当事由” があったのかもしれませんが、故人になられた以上もはや真相はわかりません。
投降後、時のフィリピン政府からは恩赦を受け刑罰は免ぜられましたが、このことにつき日本政府からは 3 億円の見舞金が現地に支払われました。
敗戦を知り得ない、または信じない中野学校出身者は小野田氏に限らず多数いたとされ、戦後も各地に留まりながらあらゆる工作活動が継続されたとされています。
なんと、日本国内で敗戦を知りながらも GHQ に潜入して内部攪乱を図った猛者もいたとか…
「陸軍中野学校」の開校から閉校まで
❶ 戦争の火種がくすぶる 1938 年 3 月、現東京都千代田区に「防諜研究所」として設立。
(上述した映画【陸軍中野学校】はこの第一期生がモデルであろう)
❷ 1939 年、施設を東京都中野区に移転し、名称を「後方勤務要員養成所」に改める。
➌ 1940 年、名称をさらに「陸軍中野学校」と改名し、翌年には参謀本部直轄の軍学校となる。
❹ 戦争の行方が怪しくなってきた 1944 年、現静岡県浜松市にゲリラ戦(遊撃戦)に特化した要員養成を目的として、姉妹校「陸軍中野学校二俣(ふたまた)分校」が設立される。
前述した小野田元陸軍少尉はここの第一期生。
「小野田は演習でも何でもとにかく真面目に取り組む男」だった、と同期生はある取材にて回想。
ジャングルから投降させるため当時の上官(某元少佐)がわざわざフィリピンまで出向き、書面とともに “任務解除命令” が伝えられることによってようやく小野田氏は投降の決意を固めた。
➎ 1945 年 3 月、東京大空襲の影響により「中野学校本校」が群馬県富岡町に移転。
❻ 1945 年 8 月、太平洋戦争終結により両校とも閉校。
故 小野田寛郎元少尉の略歴 その他
❶ 1922 年、現和歌山県海南市にて出生。
❷ 満 20 歳での徴兵検査によって上海の商事会社勤務から地元和歌山県の陸軍歩兵第 61 連隊所属の二等兵に。
➌ 予備士官学校に合格 & 入校。
❹ 英語等外国語に堪能なことから「陸軍中野学校二俣分校」に選抜 & 入校。
➎ 「軍曹」から「少尉」となり、高級司令部の持つ情報をすべて与えられたうえゲリラ戦指揮等のためフィリピンへ赴任。
❻ ルバング島に着任するもアメリカ軍の圧倒的火力になすすべなく、部下達とともにジャングルへ逃避。
❼ すぐさま終戦を迎えるも “任務解除命令” は届かず、部下数名とともに以後長年におよぶ “ゲリラ活動” を開始する。
❽ 投降や銃撃戦等で部下達はすべていなくなり、1974 年に投降。
❾ 帰国して約半年後、様変わりした日本社会に馴染めず実兄のいるブラジルに渡り牧場を開拓。
❿ 牧場が軌道に乗った約 10 年後、再び日本に戻り「小野田自然塾」を主宰。
⓫ 2014 年、東京都中央区にて 91 歳で死去。
波乱万丈の人生を歩み、全体としては好意的に受け止められている小野田氏ですが、いやはや上の 3 枚の写真が同一人物とはとうてい思えません。
中には以下に記されたような激辛な評価などもあって “真相やいかに⁉” てな感じです。
何はともあれ、戦争さえなければ小野田氏も他人を殺めることなどなく、まったく違った人生を送れたにちがいありません。
【不撓不屈】
戦後約 30 年、ジャングルで戦い続けた一人の男が日本の若者に残した言葉です。
【参考】
小野田の手記『わがルバング島の 30 年戦争』(1974 年)のゴーストライターであった作家の津田信は、『幻想の英雄―小野田少尉との三ヵ月』(1977 年)において、小野田を強く批判している。
小野田が島民を 30 人以上殺害したと証言していたこと、その中には正当化できない殺人があったと思われることなどを述べ、小野田は戦争の終結を承知しており残置任務など存在せず、1974年に至るまで密林を出なかったのは「片意地な性格」に加え「島民の復讐」をおそれたことが原因であると主張している。津田の長男でジャーナリストである山田順は実際に小野田と会った際の印象について「冷酷で猜疑心の強い人」だったと述べている。
手記が執筆されている際に 2 人で風呂に入る機会があったが、「今の若いのはダメだ」などと早口でまくしたてながら突然銃の撃ち方について説明を始めたりしたという。
元新聞記者であった津田が小野田手記のゴーストライターとして「嘘を書いた」ことは痛恨の極みであったろうと山田は推測しており、小野田についても「ただの人殺し」、「完全に創られたヒーロー」としている。Wikipedia
2021年10月 映画【ONODA】公開
2021 年 10 月、小野田氏をモデルにした映画〖ONODA〗が公開されました。
かなり評判もいいようなので機会があればぜひご覧になられてみてはいかがでしょうか ?
追記(2023 年 4 月)
映画〖ONODA 一万夜を越えて〗は 2023 年 4 月時点、動画配信サービスの【U-NEXT】ならびに【Amazon プライムビデオ】にてご視聴可能です。(有料)
なお【U-NEXT】では “お試し期間” に貰える 600 ポイントを利用すれば実質無料でご覧になれます。
詳細は以下記事にて。
【参考動画】
〖映画『ONODA 一万夜を越えて』予告編〗
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