【はじめに】
〖甲府へ行くくれーなら死罪のほうがマシじゃぁぁ !!〗
江戸時代、幕府より【甲府勤番詰(こうふきんばんづめ)】を命じられた武士たちはみなそう言って涙したそうな。
“甲府勤番” は現代社会に生きる官僚やエリートサラリーマンたちの間でも、返り咲き不可能、再起不能な “死刑” のごとき左遷を意味する言葉としてよく使われたりもします。
それにしても、罪人による強制労働ならまだしも、彼らの身分は “武士” で、一応は当時の支配階級たる一員です。
そんな彼らがこぞって “死んだほうがマシ” と嘆き、実際多くの発狂者や自殺者をも出したというその転勤先・出向先とは果たしてどんなものだったのでしょうか。
一足遅れで任地にやって来るはずだった新妻が、いつまで経っても来てくれず、数年後に発狂して庭の木で首を吊った… なんて事例も。
てなわけで、今回は江戸時代の旗本や御家人たちを奈落の底に突き落としたとされる有名な地方出向左遷、【甲府勤番詰】なるものをご紹介。
《武田信玄》により発展! “甲府” 支配の移り変わり(鎌倉~江戸)
Wikipedia より
“【甲府勤番詰】” を語るその前に、まずは “甲府” という土地とその歴史についてを必要な範囲内で簡単に述べておきましょう。
“甲府” という地名や駅名は現在でも使われていますが、“昔の甲府” はザックリ言えば “今の山梨県” のことで、鎌倉時代に入ると源氏一門の《武田》氏が【守護】として当時の当地 “甲斐国(かいのくに)” を支配することとなり、やがて戦国時代には《武田信玄》が治水や金山の整備開発を行うなどして大きく発展させました。
その後は、《徳川》家 ⇨《豊臣》家 の支配を経て、江戸時代には再び《徳川》家が支配することとなり、中でも “甲府藩” は幕府の重要拠点でもあったことからその【大名(甲府城主)】には主に《徳川》家の者が任命され、のち 1724 年には 8 代将軍《徳川吉宗》によって “藩” から幕府直轄地の “天領” へとさらなる格上げもなされました。
なので、ある時期までは “左遷” ではなく “栄転” だったのかもしれません。
江戸の直参武士(旗本・御家人)から “山流し” と恐れられた地方への出向左遷【甲府勤番詰】とは
幕府直轄地の “天領” を管理監督する者は、通常【勘定奉行】配下の【郡代】や【代官】ですが、甲府は「甲府城」をも抱えたその土地の重要性から、さらに【老中】直轄として 2 名の【甲府勤番支配】(追手 & 山手)なる役職も上級旗本より選任されました。(上図参照)
ようするに、【代官】と【甲府勤番支配】のダブル支配ってことです。
【甲府勤番支配】といった役職はしょせん出世コースの一通過点であり、特に問題さえなければ彼らは数年でその地を離れることができました。
が、その反面、配下たる武士【甲府勤番士】はというと、ひとたび辞令が下ればもはや返り咲くことはほぼ不可能で、そのほとんどが一生その地から離れることはできませんでした。
“死罪のほうがマシ” と言わしめるだけあって、生活環境の厳しい山々に囲まれた地で一生を終えるのは、華美な江戸の町に慣れ親しんできた旗本や御家人たちにとってはこの上なく耐え難いものだったようです。
「旗本(はたもと)」とは 1 万石以下の将軍直属の家臣(直参(じきさん))のうち “将軍に謁見できる者” をいいます。
同じく直参で、“将軍に謁見できない者” は「御家人(ごけにん)」です。
両者の格差は大きく、「御家人」から「旗本」への昇進はよほどの功績でもない以上はほぼ不可能でした。
【甲府勤番】の設立・職務・編成
“甲府勤番” なる職制は、江戸中期(1724 年)に “甲府藩” が廃止され “天領” に格上げされたタイミングで代官所(数ヶ所)とともに設置されました。
地域地域における租税の徴収や戸籍調査がメインの代官所役人とは違い、より一層重要な甲府城の守備警護や城下の行政・治安維持などを司るというのが彼らの役割で、設立当初の構成人員は、【甲府勤番支配】2 名、【甲府勤番士】200 名、【与力】20 名、【同心】50 名、と定められていたようです。
が、幕府の重要な “左遷先” とされて以降は、これより増えることはあっても減ることはなかったのではないでしょうか。
人によっちゃあ栄転 ⁇ やがて “ボンクラ武士” の巣窟に
誰もに忌み嫌われた【甲府勤番詰】なる職は、いわば必然的に問題のある旗本や御家人の左遷職とされるようになりました。
法では裁けず、あるいは法で裁くほどでもない旗本や御家人をこらしめる場として幕府上層部にうまく “活用” されたってわけです。
中には芸者に狂った旗本の “付き人” だったというたったそれだけで上層部に睨まれ、甲府送りになった、などという哀れな御家人も…
人生終わりの彼らにはもはや忠誠心やヤル気などこれっぽっちもなく、すぐさまボンクラ揃いの掃き溜め集団へとなり果てていきました。
というか、まともな人間は発狂するか死を選び、結果としてボンクラだけが溜まっていった、というのが正しいのかもしれません。
足元で起こったいつぞやの一揆では自力鎮圧できずに隣の藩に助けてもらい、また幕末期にいたっては、敵軍に攻め入られる前に勤番士のほとんどが甲府城から逃げ去ったそうです。
お腰の刀はなんぞや…
しかしながら、中央からは何らの干渉もされず、毎日フラフラと過ごしながらも “一公務員” として給料だけはきっちり貰えていたのであれば、左遷どころか人によっちゃそれこそ “栄転” だったのではないでしょうか。
似たような “税金泥棒士” は今の日本にもワンサカいらっしゃるような気がしてなりません。
【参考動画】
〖甲府城〗
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