【はじめに】
ネオン輝く上の光景…
見覚えのあるお父様方も多いのではないでしょうか ?
そう、日本最大級とも言われる東京のソープランド街、「吉原(よしわら)」の一画です。
今でこそビルの建ち並ぶ「吉原」ですが、その名の由来は辺ぴで何もない “葦(ヨシ)” の “原” っぱ。
江戸時代初期(1600 年代初め)、江戸の中心地から遠く離れた海辺のすぐ近く(日本橋付近)に、それまで点在していた遊女屋(売春施設)を一箇所に寄せ集めて設けられたのが幕府公認の風俗街【吉原遊廓】で、これこそがまさに現「吉原」の起源。
しかしながら、江戸の町が急ピッチで拡大していく中、辺ぴな地であったはずの【吉原遊廓】もやがては目ざわりな存在となり、また同時期に起こった大火災「明暦の大火」とも重なって、わずか数十年後には幕府の命令により移転を強いられることとなりました。
この新しい地(浅草寺裏の日本堤)に移された【吉原遊廓】こそが、その後の日本を大きく沸かせる【“新” 吉原遊廓】で、通常 “吉原遊廓” と言えばこの移転後のものを指します。
【吉原遊廓】の人気遊女は日本を代表するまさにトップスターで、彼女たちを一目見ようと日本全国から多くの人々が押し寄せ、店舗地図や所属遊女などを掲載したガイドブック「吉原細見(よしわらさいけん)」まで発行されるようになりました。(下画像参照)
てなわけで、今回は単なる売春街ではない “日本文化の発信地” ともされた江戸時代最大のテーマパーク、【吉原遊廓】の栄枯盛衰等をご紹介。
「遊廓」の成立 等
男がいて、女がいて、文明が発展すれば売春産業も発展するってのは古今東西どこも同じ。
男の体内で絶え間なく生産され続ける “子種” は何らかの形で吐き出さねばならず、女体ひとつで簡単に稼げる “売春” は最も手っ取り早い “商売” として古来より盛んに行われてきました。
わが日本でも「万葉集」にその記述が見られることから、遅くとも奈良時代までには各地の宿場町などでそうした “商売” が営まれていたであろうとされていますが、政府(幕府)がそれに目を光らせるようになったのは室町時代に入ってから。
許可を与え、保護を与える代わりに遊女(売春婦)や遊女屋(売春宿)などから上納金を吸い上げ国家財源の一部とするようになりました。
当初は好き勝手に営業していた遊女や遊女屋でしたが、やがては管理上の問題等から幕府主導により地域地域で一箇所に集められ、「遊廓」と呼ばれる町の一画が形成されることになったのです。
江戸幕府公認とされた遊廓は日本全国二十箇所以上にも及び、そのうち「日本三大遊廓」と称されたのは、大坂【新町遊廓】・京都【島原遊廓】・江戸【新吉原遊廓】の三箇所。
その中で規模・人気ともに頂点に君臨したのがまさしく【新吉原遊廓】でした。
たった一つの門 & 四方を取り囲む塀がトレードマークの【新吉原遊廓】ですが、遊廓とはいえここまで徹底した閉鎖的つくりは珍しいものだそうです。
外国人客がメインの長崎【丸山遊廓】など、遊廓にはそれぞれ地域地域による個性などもあったようですが、どこであれ高給取りの上級遊女になるためには容姿や性技だけでなく高度で幅広い知識・教養をも身につけなければなりませんでした。
それらを極めてトップスターにまで上り詰めたのがいわゆる「太夫(たゆう)」や「花魁(おいらん)」などと呼ばれた一握りの遊女ですが、その数はごく少数。
公家を顧客に持つ京都【島原遊廓】や、幕府重鎮・有力商人などを顧客に持つ江戸【吉原遊廓】の彼女たちは数ある遊廓の中でも別格的存在だったようです。
【吉原遊廓】340 年の栄枯盛衰
【吉原遊廓】は 1603 年の江戸幕府開幕ののち、1617 年に元駿府の遊女屋主人《庄司 甚右衛門(しょうじ じんえもん)》の度重なる陳情を幕府が受け入れたことによって設立されました。
江戸の町が整備されゆく中で、何度も立ち退きを要求してくる幕府にプッツンきたのが陳情のきっかけです。
【吉原遊廓】は 1657 年の「明暦の大火」直後の移転を境に【元吉原遊廓】と【新吉原遊廓】に区別されますが、日本を代表する遊廓として延べ 340 年間、昭和に至るまでの長きに渡り存続し続けました。
江戸の町は、地方からやって来た土木工事の関係者や参勤交代などによる武士が多く住み着いたことから “男” の比率が異常に高く、当然の帰結として【吉原遊廓】も大いに繁盛することとなったのです。
【新吉原遊廓】の完成直後には、なんと 300 軒以上もの遊女屋がびっしりと軒を連ねていたそうです。
ただ、四方を塀に囲まれている上に建物が密集し、また周囲からの “火消し” の応援も諸般の事情で得られなかったことから火災が大規模化しやすく、多数の人命も失われました。
1855 年の「安政江戸地震」に伴う大火災(画像参照)では遊廓内だけで 1000 人以上もの死者を出したといいます。
死者の半数以上は遊女で、彼女たちの遺体は近くの「浄閑寺(じょうかんじ)」に投げ込むようにして葬られました。
死亡した遊女は、それ以前からもこの寺にて葬られていたそうですが、この一件以降は「投込寺(なげこみでら)」とも呼ばれるようになったそうです。(画像参照)
幕府非公認の「岡場所(おかばしょ)」や江戸に近い宿場町など、何かと競争相手も多かった【吉原遊廓】ですが、最先端をゆくファッションやトレンドの発信地として江戸末期に至るまで不動の人気を維持し続けました。
しかしながら明治以降になると、政界や財界の社交場がより東京に近い芸者町などへ取って代えられたことから規模の縮小を余儀なくされ、さらには 1911 年の「吉原大火」、1923 年の「関東大震災」で大きな被害をこうむったあげく、1945 年の「東京大空襲」ではほぼ全焼となります。
度重なるそうした被害からもなんとかかんとか立ち直ってきた【新吉原遊廓】でしたが、 1957 年(昭和 32 年)4 月 1 日、キリスト教女性団体による運動を発端に可決成立した「売春防止法」の施行によって、とうとうその長い歴史に幕が降ろされることとなりました。
現「吉原」のソープランドたちはその名残ってわけです。
【参考動画】
〖江戸時代の吉原遊郭の構造!郭内や妓楼はどんな間取りだった?〗
一世を風靡した高級遊女たち
遊廓はれっきとした階層社会で、各店はその規模等により「大見世(おおみせ)」「中見世(なかみせ)」「小見世(こみせ)」といったランク分けがなされ、また遊女にもさまざまな階級(太夫・格子・局・散茶・座敷持・部屋持…etc)が存在し、高級店で高級遊女を相手にしたければ主に「大見世」に行く必要がありました。
店や遊女の収入、また遊ぶ側の出費もそれにより大きく異なったというわけです。
1658 年版ガイドブック(吉原細見)によれば、遊女約 2000 名のうち №1 の「太夫」が 3 名、№2 の「格子」が 67 名となっており、上級遊女として名を連ねることがいかに難しかったかがよく分かります。
主だった遊廓において、遊女の最高位とされたのが「太夫(たゆう)」ですが、なぜか江戸【新吉原遊廓】においては「格子(こうし)」とともに宝暦年間(1700年代半ば頃)に姿を消し、新たに「花魁(おいらん)」といった最上位の呼称が誕生しました。
上位クラスの吉原遊女には身の周りの世話をする「禿(かむろ=現小学生くらい)」(上写真参照)や「振袖新造(ふりそでしんぞう=現中高生くらい)」といった妹分を従えており、彼女たちがその姉貴分を『おいらん』と呼んでいたことがその名の由来とされていますが、「おいらん」自体の意味については “おいらの姉さん” とする説だのなんだのと複数あって定かではありません。
「太夫」にせよ「花魁」にせよ、絶世期に至ってはトップクラスの遊女と床を共にしたくば現在のお金にして最低数百万円、あるいはそれ以上が必要だったと言われており、一般庶民とはまったく無縁の方々だったことでしょう。
また、お金さえ積めば OK というものでもなく、身分や人柄など、関係者たちによる事前審査にパスできなければ顔すら拝むこともかなわなかったと言います。
さんざんお金をばらまき、運よく目的を果たせたとしても最速で 3 日目。
上座に座るのは常に彼女たちで、最初の 1 日目や 2 日目はまともに会話すらしてもらえず、遠くからただ黙って見ているだけだったそうです。
一説によれば、江戸時代の有名な商人《紀伊国屋 文左衛門(きのくにや ぶんざえもん)》は、節分に吉原を訪れた際、“豆まき” のかわりに “小判まき” をなさったとか。
ただ、世の移り変わりとともに太夫や花魁などの存在価値も変わり、やがては一般大衆でも手の届く存在となったようです。
太夫様や花魁様になんとかかんとか認められて「馴染み=エッチ OK」となれば、その後は他の遊女との “浮気” は一切ご法度とされ、もし破ろうものならチクられたあげくエグい報復が待ち受けていたそうな。
⇩参考⇩
客が気に入った遊女の借金を肩代わりするなどして、言わば “買い取る” ことを「身請(みうけ)」と言ったそうですが、相手が吉原の花魁ともなれば数千両(今にいう数億円)もの大金が必要だったそうです。
手にできる収入がほとんどないうえ、不衛生な環境や栄養不足から短命の者も多く、また【新吉原遊廓】などでは大規模な火災が頻発したこともあって、おびただしい数の下っ端遊女がそれにより命を落としたとされています。
また、なじみ客に惨殺された(吉原百人斬り事件)などという遊女もおり、その際使用された凶器は妖刀「村正」だとした説もありますが、真実やいかに。
有名な「太夫」の一例
Wikipedia より
【参考動画】
〖【実話】吉原遊女の格差社会【漫画】【リアル吉原遊郭シリーズ】〗
最後に
史上 2 番目として、日本紙幣の女性肖像画にも採用された明治を代表する小説家《樋口 一葉(ひぐち いちよう)》。
紙幣の肖像画としては珍しく若い感じがしますが、それもそのはず、彼女の享年は 24 歳。
才能に恵まれながらも苦しい生活から抜け出せず、ようやく光が見えてきた矢先、不治の病に侵され年若くして無念の死を遂げました。
彼女の晩年、秀作を連発した「奇跡の 14 カ月」と言われるその時期に発表された最も有名な小説が「たけくらべ」。
彼女が晩年過ごした地に程近い「吉原」をその舞台とし、人気花魁の姉を持ちつつ自身も将来その道に進むこととなる 14 歳の少女を主人公として描いた短編小説です。
【新吉原遊廓】の近くに身を置いた《一葉》だからこそ描けたリアリティ豊かな作品であり、読まれたことのない方で「吉原」に興味を持たれた方はぜひこの機会にご一読されてみてはいかがでしょうか ?
【参考動画】
〖文学アニメーション 「たけくらべ」【一葉記念館】〗
小説「たけくらべ」のご購入に
オススメ映画
【吉原遊廓】を題材にした映画の代表格といえばコレ !
名取裕子ファンのお父様方はヨダレに注意。
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おまけ(春画ギャラリー)
Wikipedia より
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