【はじめに】
日本の初代『南極観測船』としてあまりにも有名な【宗谷(そうや)】。
タロジロの〖南極物語〗にも登場しており、ある世代以上の方でしたらおそらくはほとんどの方がご存知でしょう。
ところがこの【宗谷】、『南極観測船』としての役割を担ったのは 1956 年(昭和 31 年)から 1962 年(昭和 37 年)までのたかだか 6 年間に過ぎず、その真の姿は、戦前、戦中、戦後の長きに渡ってあらゆる場面で活躍した、まさに “昭和日本” を代表する万能な船で、そのことを知らない人は意外に多い様子。
【宗谷】は元はといえば戦前、ソビエト通商代表部に「商船」として引き渡すはずであった 3 隻のうちの 1 隻で、船名も当初は【ボロチャエベツ】。
ところが戦争直前の際どい国際情勢から引き渡しはなされず、船名も【地領丸】と改められ、わが国において「商船」としてデビューすることとなりました。
しかしながら、すぐさま日本は戦争へと突入し、【地領丸】も海軍の「特務艦」として過酷な戦場へと駆り出されることとなり、その後は波乱に満ちた人生(船生 ?)を歩むこととなります。
てなわけで、今回は “奇跡の船” ともいわれる【宗谷】号の『南極観測船』以外の顔を詳しくご紹介。
- 昭和日本を代表する “奇跡の船” としても有名な【宗谷】号 その 歴史・伝説・現在 とは★
- 【宗谷】号のサイズ(長さ・トン数等)や略歴(誕生~引退展示まで)
- 「特務艦」時代の【宗谷】号|優れた砕氷能力&最新ソナー配備で日本海軍より大抜擢★
- 「復員船」・「引揚船」時代の【宗谷(宗谷丸)】号|GHQ 管理のもと所属は 大蔵省 ➔ 民間 へ★
- 「灯台補給船」としての【宗谷】号|“引揚” 終了後は海上保安庁の所属・管理下に 灯台守からは複数の愛称も★
- 「巡視船」としての【宗谷】号|初代『南極観測船』に大抜擢! その後は多数の救助実績により「海の守り神」とも★
- 現役引退後の【宗谷】号|今現在は「船の科学館」にて展示公開中で無料見学可! PC・スマホで “3D バーチャル見学” もできる★
- 余談|えっ⁇【宗谷】号に「ダッチワイフ」も⁇
- おすすめ映画(〖南極物語〗・〖喜びも悲しみも幾歳月〗)
- 【おまけ動画】“昭和のお父さん” へ懐かしの映像プレゼント
- 【オススメ記事】
昭和日本を代表する “奇跡の船” としても有名な【宗谷】号 その 歴史・伝説・現在 とは★
【宗谷】号のサイズ(長さ・トン数等)や略歴(誕生~引退展示まで)
❶ 1936 年(昭和 11 年)
ソビエト通商代表部からの注文を受け長崎県の造船所にて起工。
❷ 1938 年(昭和 13 年)
竣工 & 進水。
全長約 82m、最大幅約 13m、総トン数約 2200t、といった小回りの利くサイズ(全長=戦艦大和の約 1/3)で、姉妹船【天領丸】&【民領丸】とともにソビエトへの引き渡しはなされず日本の商船【地領丸】としてデビュー。
❸ 1939 年(昭和 14 年)~ 1945 年(昭和 20 年)
帝国海軍に「特務艦」として徴用・買上げされ、船名を【地領丸】から【宗谷】に改める。
戦時中は測量や輸送等の雑用船として激戦地を転々とし、敗戦後は一旦 GHQ の管理下に。
❹ 1945 年(昭和 20 年)~ 1948 年(昭和 23 年)
GHQ の管理のもと大蔵省へと引き渡され、船名を【宗谷丸】と改めたうえ「復員船」として使用。
次いで民間組織へと引き渡され、「引揚船」として使用。
➎ 1950 年(昭和 25 年)~ 1955 年(昭和 30 年)
GHQ の管理終了とともに海上保安庁に移籍され、船名を【宗谷丸】から再び【宗谷】に戻す。
改装の後、日本各地の灯台に物資を運ぶ第七代「灯台補給船」となる。
❻ 1956 年(昭和 31 年)~ 1978 年(昭和 53 年)
「灯台補給船」から「巡視船」へと種別変更され、大改造を施された後、1962 年までは『南極観測船』(第 1 次 ~ 第 6 次)としての役割を担う。
❼ 1979 年(昭和 54 年)~
海上保安庁に所属したまま「巡視船」として引退を迎えた【宗谷】は、 2021 年現在、東京都品川区にある「船の科学館」にて“海上保安庁唯一の保存船” として一般に展示公開されている。
「特務艦」時代の【宗谷】号|優れた砕氷能力&最新ソナー配備で日本海軍より大抜擢★
1940 年(昭和 15 年)2 月 20 日、海軍の「特務艦」に編入された【地領丸】は同日付で新たに【宗谷】と命名されました。
【宗谷】の艦名は海軍では二代目だそうで、初代は日露戦争でロシアから奪った某巡洋艦だとか。
「特務艦」などといえば、“極秘任務” に従事するかのごとく聞こえはいいものの、二代目【宗谷】の役回りは、それとはほど遠い『雑用運送艦』でした。
貨物船ながらも優れた砕氷能力・耐氷能力を持ちあわせ、また当時では珍しい英国製の最新ソナーを装備していたことから海軍上層部に早くから目を付けられていたそうです。
「特務艦」時代の【宗谷】は人員の移送や物資の輸送、その他占領地周辺の測量など、危険地帯を行ったり来たりさせられながら数々の修羅場をくぐり抜けました。
ちなみに、姉妹船の【天領丸】&【民領丸】は陸軍に徴用され、【天領丸】は昭和 20 年 5 月に、【民領丸】は昭和 19 年 2 月に、それぞれ米潜水艦の魚雷攻撃によって沈没しています。
幸運・奇跡の船たるゆえんここにあり! 爆弾の雨もなんのその⁉ 魚雷命中もまさかの不発⁉ 自然現象も味方した⁉
【宗谷】が “奇跡の船” と呼ばれるゆえんは、この「海軍特務艦」時代に数多くの危機一髪を乗り越えてきたからに他なりません。
ミッドウェーやラバウルなど激戦地を転々とさせられていた【宗谷】は、そのつど米潜水艦や戦闘機・爆撃機の標的となり激しい攻撃にさらされました。
しかしながら、すべて致命傷に至ることはなく、時には魚雷が命中したにもかかわらずたまたま不発だったため難を逃れた、なんてことも。
“濃霧” など自然現象で救われたこともあり、周囲の艦船が次から次へと撃沈されゆく中で、なぜか【宗谷】だけは神にでも守られているかのごとく毎回奇跡的に生還することができたのです。
「復員船」・「引揚船」時代の【宗谷(宗谷丸)】号|GHQ 管理のもと所属は 大蔵省 ➔ 民間 へ★
終戦直後の 1945 年 10 月、GHQ 管理のもと大蔵省所属となった【宗谷】は船名を【宗谷丸】と改め、国外に残された兵隊を日本に帰還させるための「復員船(復員輸送艦)」として、主に東南アジア諸国へと出向きました。
復員任務が一段落した後は、大蔵省から民間組織へと所属を変え、国外の民間人を帰国させるための「引揚船」として、主に中国、朝鮮、樺太などへと出向き、累計 2 万人近い引揚者を運んだとされています。
ちなみに、この引揚時に【宗谷丸】の船内で誕生した女児が複数名存在するようですが、名付け親になった当時の船長はみな「宗子(もとこ)」と名付けたようです。(苦笑)
なお、【宗谷丸】とは関係ありませんが、終戦直後の「復員」&「引揚」の様子が撮影された貴重な記録映像(カラー・無音)を発見いたしましたので、以下参考ばかりに貼り付けておきます。
当時の雰囲気がなんとなくは分かるのではないでしょうか。
【参考動画 / 日本人の引揚】
〖大竹の日本人引揚者 記録映像〗
「灯台補給船」としての【宗谷】号|“引揚” 終了後は海上保安庁の所属・管理下に 灯台守からは複数の愛称も★
戦後約 4 年が経過し、GHQ より「引揚船」としての任を解かれた【宗谷丸】は、その後引退するまで一貫して海上保安庁の所属・管理下となります。
船名は再び【宗谷】と改められ、そして 1950 年(昭和 25 年)、必要な改装が施されたのち真っ先に与えられたのは、日本の津々浦々にある灯台やそれを管理する灯台守、及びその家族へ向けて必要な物資を輸送する「灯台補給船」としての任務でした。
民間からチャーターしていた第六代「灯台補給船」を船主に返還しなくてはならなくなったため、その代船として急遽【宗谷】に白羽の矢が立てられたのでした。
今でこそ日本の灯台はすべて無人化されていますが、2006 年まではわが国にも “灯台守(とうだいもり)” といった人達が存在しており、東西南北、彼らの命を繋ぐ重要な役割を【宗谷】が担うこととなったのです。
北の果てから南の果てまで、灯台の多くは人里離れた厳しい環境に存在し、海に面した灯台への物資輸送は陸路よりも海路を使う方がより確実でした。
東京港を母港として、夏は北海道、秋は九州、といったように季節によってコースが定められており、灯台守やその家族からは「燈台の白姫」や「海のサンタクロース」などと呼ばれ親しまれていたそうです。
「巡視船」としての【宗谷】号|初代『南極観測船』に大抜擢! その後は多数の救助実績により「海の守り神」とも★
約 5 年半「灯台補給船」として任務を全うした【宗谷】は、 “運の強さ” など様々な点から考慮された結果、初代『南極観測船』(種別は「巡視船」)へと大抜擢され、すぐさま大掛かりな改造が施されることとなりました。
そして 1956 年(昭和 31 年)の第 1 次観測から 1962 年(昭和 37 年)の第 6 次観測までの 6 年間、日本と南極との往復を繰り返しながら “タロジロ物語” など様々なドラマを築き上げ、【宗谷】の名は一気に日本全国へと広まりました。
その後、二代目『南極観測船』の【ふじ】へとバトンタッチして以降引退までの約 16 年間は、“海上保安庁最大の「巡視船」” として様々なイベント活動や救助活動、調査活動などで日本の海を東奔西走することとなります。
125 隻の船、1000 名以上の救助実績を上げ「海の守り神」とも呼ばれるようになりました。
「巡視船」の解役式に海上保安庁の長官自らが出席したのはこの【宗谷】のみ(2017 年時点)だそうで、こうしたことからもこの船の偉大さが窺い知れましょう。
現役引退後の【宗谷】号|今現在は「船の科学館」にて展示公開中で無料見学可! PC・スマホで “3D バーチャル見学” もできる★
「奇跡の船」、「不可能を可能にする船」、「燈台の白姫」、「海のサンタクロース」、「福音の使者」、「帝国海軍最後の生き残り」… etc
これら多数の愛称を持つことからも、【宗谷】の深い歴史と愛されぶりがよくわかります。
記事作成にあたって参考にしたある資料(〖国立国会図書館デジタルコレクション〗「太平洋学会誌」)に、“【宗谷】は日本人のお父さん” との例えが記されていました。
社命ひとつで各地を転々とさせられ、クタクタになりながらも一生懸命にコツコツと働く…
激動の昭和を生き抜き、陰に日向にと日本を支え続けた【宗谷】は、まさに “昭和のお父さん” そのものの姿に他なりません。
おん年 80 歳を回った彼は、現在東京都品川区にある「船の科学館」にてゆっくり過ごしてらっしゃいます。
入館料も無料ですし、興味のある方はぜひ一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか ?
〖船の科学館 HP〗では【宗谷】の “360 度バーチャル見学” (リアルな船内探検)なんかも楽しめますので、こちらもぜひオススメ !
【参考動画 / ドローン空撮】
余談|えっ⁇【宗谷】号に「ダッチワイフ」も⁇
最後に、かなりどうでもいい話ですが…
純国産 “ダッチワイフ” として名高い「南極 1 号」は、医師らの提言により当時の文部省が南極越冬隊員のために作らせたのがその名の由来なんだとか。
お堅い日本の省庁が、我々の税金で “ダッチワイフ” を作らせた、だなんて仰天この上なし。
そして “彼女” たち2体も【宗谷】に乗せられ隊員たちと共に南極へと向かった次第。
以下は、その件につき〖Wikipedia〗(← 全部読みたくばクリックでどうぞ) より一部抜粋したものです。
そして、自らも越冬隊員となる医師の中野征紀の発案により、女体を模した性具人形を用意することになった。
中野を中心とする医師らは全国を探し回った末、東京・浅草橋の人形問屋に1体あたり5万円で2体の人形制作を依頼した。
出来上がった人形は、備品としては報告されることのない曖昧な位置づけのまま、南極へ向かう観測船・宗谷に人知れず積み込まれた。
宗谷が南極へ到着すると、2体のうち1体が上陸し、もう1体は帰国する宗谷の倉庫に残された。
越冬準備の屋外作業がおおむね完了したある日、朝食の席で唐突に、人形の存在が隊員らへ告げられた。
隊員らは「べんてん様」なる性具人形の存在を薄々聞いてはいたが、基地まで持ち込まれたと知り、どよめいた。
かくして一日につき一人ずつ、越冬隊長を皮切りに、年長者から順に「べんてん様」へ「お参り」する運びとなった。
おすすめ映画(〖南極物語〗・〖喜びも悲しみも幾歳月〗)
タロとジロの感動ストーリー〖南極物語〗や、灯台守の厳しい日常を描いた〖喜びも悲しみも幾歳月〗は日本映画を代表する名作で、まだ見られたことのない方にはぜひオススメいたします。
古い映画ですが、両作品とも動画配信サービス「U-NEXT」にて現状(2021 年 12 月現在)タダでご覧になれます。
⇩ 詳しくは以下記事にて ⇩
【おまけ動画】“昭和のお父さん” へ懐かしの映像プレゼント
〖「昭和20年代の子供たち」 当時の子供達の貴重な写真と映画から〗
※「宗谷」とは何の関係もありません
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