【はじめに】
〖暴れん坊将軍〗〖水戸黄門〗〖遠山の金さん〗〖大岡越前〗〖鬼平犯科帳〗…etc.
“時代劇チャンネル” などを見ると何十年も昔の作品が何度も繰り返し放送されており、わが国の時代劇は相も変わらず根強い人気があるようです。
そうした人気作のほとんどは、誰にでも楽しめる “単純明快 かつ ワンパターン” な内容で、良いヤツ・悪いヤツ・身分の高いヤツ・身分の低いヤツ がいて、“良いヤツが悪いヤツをこらしめハッピーエンド” てのが相場。
が、単純でわかりやすいとはいえ、よく出てくる定番の役職、例えば【老中(ろうぢゅう)】【若年寄(わかどしより)】【大目付(おおめつけ)】【町奉行(まちぶぎょう)】【勘定奉行(かんじょうぶぎょう)】【火付盗賊改め(ひつけとうぞくあらため)】【代官(だいかん)】などなどの 役割・権限・上下関係 などが果たしてどの程度まで理解されているかは疑問で、それらをある程度頭に入れておけばより一層 “時代劇” というものが楽しめるにちがいありません。
またその前提としては、「大名(だいみょう)」「旗本(はたもと)」「御家人(ごけにん)」などのちがいを理解していることも重要になってきます。
てなわけで今回は、人気時代劇の主軸をなす江戸時代、中でもそのメイン舞台とされがちな江戸中期あたりの、将軍を除く幕府主要職の 役割・権限・上下関係 などを、江戸幕府の基本知識や時代背景と併せわかりやすくご紹介。
まずは知っておきたい 「江戸幕府」 の基本
群雄割拠、天下を取ろうと日本各地の大名たちが日々戦いに明け暮れた「戦国時代」…
その血まみれの世に終止符が打たれ、《織田信長》&《豊臣秀吉》のごくわずかな「安土桃山時代」を経た後、“天下分け目” と言われた「関ヶ原の戦い」(1600 年・【画像1】)に《徳川 家康》が勝利したことによって次に訪れたのが「江戸時代」です。
江戸幕府開幕後、《家康》は最後の総仕上げとして「大坂冬の陣」⇨「大坂夏の陣」(1615 年・【画像2】)で豊臣家の残党をすべて亡ぼし、これをもってようやく名実ともに徳川新政権がスタートを切ったと言えましょう。
そしてその江戸時代に新たな日本の中心として定められたのは、その名のごとく現東京の「江戸」で、かねてよりその地にあった現皇居の前身「江戸城(千代田城)」が、幕末に至るまでその “総本山 かつ 将軍の住居” として使用されることとなりました。
《家康》が江戸城に移り住んで以降、江戸に広がる閑散とした湿地帯を大掛かりに開拓し、やがて日本全国から多くの人々が移り住むようになったことによって今ある大都会の基礎ができあがったというわけです。
その後、いまだ戦国の余波去りやまぬ混沌とした世の中に荒療治を施し、幕藩体制を確固たるものとして江戸時代を天下泰平に導いたのが 3 代将軍《徳川 家光(いえみつ)》(【画像1】)であり、また、女の園「大奥」を《春日局(かすがのつぼね)》(【画像2】)がスタートさせるなど幕府内部のあらゆる体制が整ったのも同じくこの頃だとされています。
ちなみに、幼少期よりデキの悪かった兄《家光》よりも、文武ともに秀でた弟《徳川 忠長(ただなが)》(下画像)を 3 代将軍にすべき、とする意見の方が側近たちの間では優勢でしたが、最後は《家光》の乳母(のちの春日局)の裏工作によって、大御所《家康》の “鶴の一声” で《家光》に決定した、という話はつとに有名。
で、弟《忠長》はというと、いつぞやより見受けられるようになっていた 乱心・奇行 が一向に改善されず、最後は幕命により切腹死。(享年 28 歳)
【徳川忠長 ご乱心一例】
・猿を殺しまくったその帰り道、カゴを担いでいた従者の尻を刃物で突き刺し、逃げ出したところを追いかけ殺害
・鷹(たか)狩りの途中で休憩した際、雪で濡れていた薪に火を付けられなかった従者にプッツンきて斬殺
・酒に酔ったあげく家臣の子や従者らを殺害し、翌朝そのことを忘れすでに死んでいる者を呼びつける
・側近の旗本を鎧(よろい)姿で追い回す
・幼い子供を殺して犬に食わせる
・腰元女を酒で酔わせて責め殺す
(※ 現代の研究者らからは、これらの 乱心・奇行は “酒” によるものではなく、統合失調症に伴う 幻覚・妄想・発狂 から生じた可能性もある、との指摘もある)
【参考動画】
〖【徳川第 3 代将軍】徳川家光は江戸幕府で何をしたのか〗
〖江戸城に迫る〗東京都立図書館(約 6 分)
武士の給料は米 ??
時代劇などを見ていると、『紀伊藩 55 万 “石” の大名』だの『知行高(ちぎょうだか)2000 “石” の旗本』だの、やたら「石(ごく)」なる用語が出てきますが、これは本来「玄米」の収穫量に用いられていた単位。
律令時代以降、日本では中国(唐)の影響を受け「銅銭」をメインとした貨幣経済が各地にて行われていましたが、質の悪い貨幣が流通したりなどでまったく安定したものではなく、またその他複数の事情とも相まって、戦国時代以降やがて世の中は「お金」よりも「米」をさまざまな価値判断の基準とすべく方向転換がなされました。
(いわゆる「石高制(こくだかせい)」ってやつですが、これを具体的に説明するのはかなり面倒なので下に概要だけ掲載しておきます。一応要点だけ分かりやすくまとめたつもりですが、ダルい内容なのでスルーをオススメ)
そうした中で、江戸時代の武士や奥女中など今に言う “公務員” たちの主な給料も、現金ではなく「米」による支給が基本とされました。
※ なお「旗本」の多くは知行地(ちぎょうち=幕府より与えられた土地)から上がる年貢米を、地元の【代官】に徴収させることによって主な収入源としていました。
“幕府支給米” にせよ “年貢米” にせよ、手に入れた米を売らねば現金を手にすることのできぬ彼らは、刻々と移り変わる「米相場」に日々神経を尖らせていたにちがいありません。
米豊作 ⇨ 米の市場価格が下落 ⇨ 武士たちが困窮
米不作 ⇨ 米の市場価格が高騰 ⇨ 町民たちが困窮
という単純ながらもバランスの難しい方程式がそこにはあったのです。
【石高制】の概要
【石高制】
「石高制(こくだかせい)」とは、土地の標準的な収量(玄米収穫量)である “石高” を基準として組み立てられた日本近世封建社会の体制原理のことで、土地の大小や年貢量のみならず、身分秩序における基準としても用いられた。
“石高” の概念自体は戦国時代に一部の大名が採用してはいたが、本格的な導入は豊臣政権による「太閤検地」以後であり、徳川政権(江戸幕府)はそれを土台として日本全国の支配を確立させた。
徳川新政権を整えるにあたり、論功行賞も含めた大名の選出や各大名家の “ランク付け” などが初期に行われたわけだが、その際そこに表記された石高(各藩の標準的玄米収穫量)は「表高(おもてだか)」と称され、これは原則的には幕末まで変わることはなかった。
だが実際の大名の所領では、新田開発や検地の徹底などによって、年貢賦課の基準とされる「内高(うちだか)」との格差は広がる一方であり、結果「表高」は大名家の支配エリアや家格の大小を明示するための単なる目安としてしか意味を持たないものとなった。
とは言え、江戸幕府は「石高制」によって各大名のランキングが簡単に把握できるようになったことから、加封・減封・転封 などの賞罰を手っ取り早く行えるようになり、また、大名に課する負担や幕府役職の任免も石高を基準とするなど、その制度は幕藩体制を維持・存続させるにあたり非常に好都合なものとして機能した。参考:Wikipedia
大名の格付け「親藩」「譜代」「外様」ってどうちがう?
上の説明にもありましたように、『紀伊藩 55 万石 』などといった場合の “○○万石” は、いつしか単純な藩のランキングみたいなものになり果てましたが、大名(藩主)には「親藩(しんぱん)」「譜代(ふだい)」「外様(とざま)」といった、それとはまた違うさらに重要な格付けもあるため、石高の大小だけで各藩の上下関係が決まるわけではありません。
ざっくり言えば、
「親藩」とは徳川家の血筋を持つ大名またはその藩
「譜代」とは古くより代々徳川家に仕えてきた家臣の血筋を持つ大名またはその藩
「外様」とはそれら以外のすべての大名またはその藩
を言います。
(※「外様」について、よく “「関ヶ原の戦い」以降に徳川家の家臣になったかどうか” で区別するといった説明がなされますが、厳密に言えばこれは間違いで、中にはそれ以前から仕えてきた大名や藩でも「外様」とされた例もあります)
当然その格付けは、上から「親藩」⇨「譜代」⇨「外様」の順であって、いくら石高が大きくても「外様」であれば「親藩」や「譜代」よりも格下になります。
【老中】【若年寄】【寺社奉行】 など、大名が幕府要職をも兼ねる場合は基本信頼のおける「譜代」の中より任ぜられました。
(※「外様」は当然として、「親藩」も幕政には参加できませんでした。身内同士、将軍とのバッティング=〖船頭多くして船山に登る〗てのを避けるためだったようです)
「御三家」って何?
時代劇〖水戸黄門〗の主役じいさん《徳川 光圀(みつくに)》は水戸藩の 2 代目藩主で、初代将軍《徳川 家康》の “孫” にあたります。
【参考動画】
〖江戸時代の大名格差!お殿様も意外と楽じゃなかった⁉〗
「天領」って何 ⁇
「幕藩体制(ばくはんたいせい)」とはその名の通り、
“「徳川幕府」= 将軍 をすべての頂点とした上で日本全国をいくつもの「藩」に分割し、幕命に従った各藩藩主(大名)たちにそれぞれの藩を統治させることによって隅々まで幕府の支配を行き渡らせる”
としたのがその趣旨ですが、日本全国津々浦々、すべての地がどこかの藩に属していたかといえば決してそうではありません。
一部の土地は「知行地(ちぎょうち)」として旗本たちに分け与え、また幕府にとって重要性の高い地、例えば “巨大な金山銀山を抱える地” や “重要な港を抱える地” などは「天領」(幕府直轄地)に指定して幕府役人に直接その地を治めさせたりもしました。
天領の広さや重要度などによって統治する者の役職は異なりますが、“格” の高い方から順に【遠国奉行(おんごくぶぎょう)】⇨【郡代(ぐんだい)】⇨【代官(だいかん)】といったものがそれです。
例えば新潟県の佐渡島(さどがしま)には【遠国奉行】たる【佐渡奉行】が置かれましたが、これは江戸幕府の重要財源たる巨大な金山を有する地だったからに他なりません。(写真参照)
また、時代劇では “ワル” が定番の【お代官様】ですが、【御庭番(おにわばん)】の隠密調査などによる報告書等からは領民たちを思いやる “イイ”【お代官様】の方がずっと多かったようです。
ちなみに…
幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代からで、江戸時代に使われていた呼称ではない。
後世に幕府直轄地が明治政府に返還された際にそう呼ばれたのが始まりで、それ以降「天領」の呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。
江戸幕府での正式名は「御領(ごりょう)」だった。参考:Wikipedia
…とのことで、近年は「天領」よりも「幕領(ばくりょう)」と呼ぶ傾向になっているらしく、全国の歴史教科書などもそちらへの表記変更が進められているんだそうです。
「旗本」と「御家人」の違いってなに ⁇
時代劇などでイマイチ分かりにくいのが「旗本」&「御家人」の違いではないでしょうか。
とはいえ、「旗本」役はたいてい身なりがきっちりしていてインテリ風な印象を受けるのに対し、「御家人」役はというと、どこかうだつの上がらぬ貧乏くさい印象を受けることからも、何となく身分の上下は察しがつきましょう。
今風に言うならば、国家公務員の “キャリア組”(Ⅰ種試験合格者)が「旗本」で、そうでない者が「御家人」てなイメージかもしれません。
将軍直属の家臣、すなわち “国家公務員” たる武士はすべてひっくるめて「直参(じきさん)」と称されましたが、内 “将軍に直接謁見できる者” は「旗本」、そうでない者は「御家人」と呼ばれ、両者の身分は厳格に区別され収入や待遇面にも大きな差がありました。
当然ながら、幕府の上級職で大名選任職でないものはそのほとんどが「旗本」より任命され、「御家人」が上級ポストを得る(=旗本に昇格する)などはそうあることではありませんでした。
(というか、本来「旗本」とは初期の徳川家に尽くした先祖より代々受け継ぐ基本固定された身分なので、後世の「御家人」がホイホイと昇格できる性質のものではない)
ちなみに江戸幕府の規定では、石高(表高)が 1 万石以上であれば「大名」、それ未満であれば「旗本」or「御家人」、と線引きされていましたので、『知行高 5000 石の旗本』だった者も何かの恩賞などで 5000 石を加増されたらその身分も「大名」または「大名格」に昇格したってことです。
なお、一度取り潰された浅野家(旧赤穂藩大名家)は、赤穂浪士たちの切腹後、新たに 500 石の “旗本” としての身分が与えられ、お家の再興が許されました。
江戸時代、大名同様「旗本」や「御家人」の 知行高(ちぎょうだか=家柄)にもやはり “石” が用いられましたが、江戸幕府の官吏登用制度は今のような能力主義ではなく、身分(「旗本」か「御家人」か)や知行高に応じて就くことのできる役職がある程度定まっていました。
例えば…
【大目付】【勘定奉行】【町奉行】=3000 石クラスの「旗本」
【目付】【佐渡奉行】【長崎奉行】=1000 石クラスの「旗本」
【牢屋奉行】=300 石クラスの「御家人」
などなど。
「旗本」と「御家人」の格差は知行高からも歴然で、大ざっぱに言えば、
- 「上級旗本」⇨ 1000 石以上
- 「中級旗本」⇨ 500 石以上 1000 石未満
- 「下級旗本」or「上級御家人」⇨ 100 石以上 500 石未満
- 「その他御家人」⇨ 100 石未満
てな感じではないでしょうか。
ちなみに、「旗本」はその多くが知行高 200 石以上の “土地持ち” であるのに対し、「御家人」は知行地など与えられず幕府の蔵米を給料として貰っている者がほとんどでした。
平和な世の中となり、ボンクラでもそれなりに生きていける「旗本」と、努力しても報われぬ「御家人」…
こうした背景もあってか、いつしか “芸者狂い” の「旗本」やチンピラまがいの「御家人」などが社会問題と化していき、やがてかの有名な「甲府勤番詰(こうふきんばんづめ)」なる一撃必殺の左遷が世に出てくるきっかけともなったのです。
中でも “ヒマ” と “カネ” の両方を持て余している 700 ~ 800 石クラスの「中級旗本」が最もタチ悪かったんだそうな。
哀れ「御家人」の貧窮生活
「御家人」の多くは江戸時代中期以降非常に窮乏した。
諸藩の「藩士」は家禄が 100 石(手取り 40 石=100 俵)あれば一応安定した生活が送れたのに対し、幕府の「御家人」は大都市の江戸に定住していたため常に物価高に悩まされ、同じ 100 石取りであっても生活はかなり苦しかったと言われる。
また諸藩では「御家人」と同じレベルの「藩士」たちは別途に農地を給付され、それを耕すことによって生計を賄うことができたが、農地などない都市部の「御家人」にはそうしたことも叶わなかった。
追い詰められた「御家人」たちは公然と内職を行って家計を支えることが一般的であった。
が…
同じ「御家人」でも町奉行所の役人はちょっと事情がちがった様子。
詳しくは後述にて。参考:Wikipedia
【参考動画】
〖江戸で暮らしていた武士の住居事情!御家人の家から大名屋敷まで解説〗
【江戸幕府職制 – 主要職抜粋】 時代劇でお馴染みの 役職・役割・上下関係 等
前述しましたように、江戸幕府ではどのポストにどの “格” の 「大名」「旗本」「御家人」 をあてがうかはある程度定まっており、基本はそれにのっとった人事が行われました。
大名職とされていた【寺社奉行】のポストは本来「旗本」の彼には縁がなかったはずですが、それまでの功績の大きさ+8 代将軍《徳川 吉宗》の強い “後押し” などもあって強引に 1 万石に加増された上(大名格とされた上)で【寺社奉行】のポストが与えられたのでした。
〖遠山の金さん〗の【町奉行】、〖鬼平犯科帳〗の【火付盗賊改め】、〖隠密奉行 朝比奈〗の【大目付】、〖必殺シリーズ〗の【町方同心】…etc.
江戸幕府も安定期に入った頃には中央や地方に上から下まで約 1500 もの役職があって、これらすべてを列挙するなどは到底できませんが、有名どころの大まかな職務内容や上下関係だけでも押さえておけば時代劇がさらに面白くご覧になれるはず。
てことで、時代劇に常連の江戸幕府主要ポスト(将軍以外)を独断と偏見でいくつか抜粋し、各々の概要を大ざっぱながら以下に記させて頂きました。(❶ ~ ⓯)
なお、時代劇では【家老(かろう)】と呼ばれる者もよく登場しますが、これは江戸幕府の役職ではなく、大名の代理や補佐をする各藩 №2 のポスト(通常地元と江戸屋敷の双方に置かれる)ですのでここでは割愛させて頂きます。
“隠密(おんみつ)” なる言葉もよく耳にしますが、これは正規の職名ではなく、秘密裏の業務やそれに携わる者を総称してこう呼びました。
今に言う、厚生労働省の「麻薬取締官」、国税庁の「国税局査察官」(マルサ)、公安調査庁の「公安調査官」みたいなイメージでしょう。
江戸幕府において “隠密” を主な職務としたその代表格が、将軍直属の【江戸城御庭番(えどじょうおにわばん)】&【目付(めつけ)】配下の【徒目付(かちめつけ)】や【小人目付(こびとめつけ)】だとされています。
江戸幕府職制をさらに細かくお知りになりたい方は以下サイト様にてご覧あそばせ。
【参考動画】(小中学生向け)
〖映像授業 Try IT /【日本史】近世〗
❶【老中】(ろうぢゅう)
複数名が月番制で政務を執り、主に「大名」の支配等国政全般を担当した。
定員は 4 人から 5 人で重大な事柄については合議にて決定。
執務時間は約 4 時間程度だったらしく、一般的には午前 10 時ごろ江戸城に登城し、午後 2 時ごろに退出したとされる。
【側用人】や【京都所司代】など将軍直属職から転じる例が多かった。
また、時期によっては臨時的に【大老(たいろう)】なるポストが上部に設置された。
【大老】は任命されても 1 名のみで、【老中】にすら有無を言わせぬ強大な権力を持った者や、名誉職的に置かれた単なる “お飾り” だった者など実にさまざま。
❷【若年寄】(わかどしより)
【老中】が大黒柱たる “夫” とするならば、【若年寄】は家事育児で家庭を守る “妻” てなイメージではなかろうか。
概ね 2 万石クラスまでの「譜代大名」から選ばれ、定員は 4 ~ 5 名。
【老中】や【側用人】などに出世するためのステップアップ職として羨望され、多くは【寺社奉行】などすでに上級職に就いている者より任命された。
❸【寺社奉行】(じしゃぶぎょう)
【町奉行】や【勘定奉行】などに比べどこか影の薄い存在であるが、当時庶民の戸籍ともいえる帳面は全て寺社が管理していたため、結婚や離婚(今日でいう戸籍に関する訴訟や審判)・移住(今日でいう戸籍や住民票の移動)・旅行(通行手形の発行)など、現在の総務省や法務省などが担う行政をも広く司り、その職域や権限はかなりのものであった。
また寺社領以外でも、複数の知行地(関八州を除く)にまたがる訴訟も担当した。
原則として「譜代大名」から任命され、定員は 4 名。
【寺社奉行】に任ぜられた者は、その後【京都所司代】や【若年寄】などの職をステップとして最終的には【老中】にまで昇り詰めるケースも多く、エリートの証とされた。
「評定所」とは、主に幕政の重要事項決定・大名と旗本間の裁判・奉行複数の管轄にまたがる裁判、などを行なった機関で、主要メンバーは、【老中】1 名・【寺社奉行】4 名・【町奉行】2 名・【勘定奉行】2 名、とされましたが、内容によっては【大目付】や【目付】なども審理に加わりました。
通常は直参の武士(旗本・御家人)に対する訴訟業務を取り扱いましたが、原告と被告を管轄する機関が異なる場合なども「評定所」で裁決しました。
(例えば、武士と一般庶民のような身分違いの裁判・【町奉行】管轄の江戸町民と【寺社奉行】管轄の宗教者の裁判・幕府領の領民と藩の領民など原告と被告の領主が異なる裁判、など)
❹【京都所司代】(きょうとしょしだい)
将軍直属の役職で、元は 京都の統治・「朝廷」や「公家」の監察・西日本の「大名」の監視・近畿地方 8 カ国の民政を総括、するなどかなりエバれる身分だったが、ある時期以降その権限は大幅に縮小され、いつしか出世コースの一通過点でしかない有名無実のポストへとなり下がった。
将軍直属だったそのポジションもやがては【老中】配下のものへと再編され、幕末に至ってはその無力さから【京都守護】なる職もその上部機関として設置された。
➎【御側御用取次】(おそばごようとりつぎ)
定員は概ね 3 名で、将軍の側近として若年より行動を共にしてきた信任厚い【側衆】(5000 石クラスの「旗本」)から任命されることが多かった。
【側衆】のような宿直勤務はなく、その職務は、中奥(なかおく=将軍の居所)の取締り、将軍と諸役人との取次、将軍の 政策・人事 両面の相談、将軍の情報源たる「目安箱(めやすばこ)」や【御庭番(おにわばん)】の管理、など多岐に及んだ。
通常の【側衆】が単なる決定事項などの事務処理をするだけなのに対し、【御側御用取次】は未決事項の 立案・審議 にも参画し、時には将軍に相談無く格上の【老中】に対し直接指示を出す場合もあった。
信任の厚さから石高が加増されるケースも多く、就任者全 46 名中の 9 名が 1 万石以上の「大名」となり、うち 6 名が【若年寄】、3 名が【側用人(そばようにん)】、2 名が【老中】へと異動している。
将軍側近の最高峰のポストが【側用人】で、【御側御用取次】や【側衆】の中で特別将軍の信任厚い者が主に任ぜられました。
職務権限については【御側御用取次】とそう大きな差はないようですが、強大な権力を握り、正式に “大老格” を与えられた者も中にはいました。
❻【側衆】(そばしゅう)
当初は、将軍の近くで政務及び監察権の行使にも関与していたことから強い政治力を持ち、【老中】以上の実権を握る者まで存在した。
主に将軍の警護や、将軍の就寝中に持ち込まれた政策などを取次ぐ役割で、交代制による 3 日に 1 度の宿直勤務もあり。
通常は 5000 石クラスの「旗本」より任命され、将軍の親任をうければさらに【側用人】や【御側御用取次】に取り立てられもした重職だが、2000 ~ 3000 石クラスの「上級旗本」が “番方” 系(以下に説明あり)の役職を進み、最後に就任するポジションでもあった。
江戸幕府の役職を超大ざっぱに分類した場合 “役方(やくかた)” と “番方(ばんかた)” にわかれます。
今風に言えば、前者は “スーツ族=頭脳派” で後者は “制服族=肉体派” てな感じではないでしょうか。
戦国の風潮が色濃く残っていた江戸初期の武士にはまだオラオラ系も多く、剣の腕や強靭な肉体に秀でた者が重用されるポスト=“番方” 系が当然に幅を利かせていました。
が、太平の世が訪れて以降は政治力や事務能力の高さが重要視されるようになり、やがてはそっち系のポスト=“役方” 系がほぼ全ての上級職を占めるようになりました。
幕府体制が整って以降、「御家人」に用意されたポストのほとんどが “番方” 系だったのは言うまでもありません。
❼【大目付】(おおめつけ)
3000 石クラスの「旗本」より任命された【老中】直属の役職で、定員は 2 ~ 5 名。
「旗本」職の中でも 5000 石級の【側衆】【留守居(るすい)】【大番頭(おおばんがしら)】に準ずる高位とされ、「旗本」でありながらも「大名」を監視することから在任中は「大名」に匹敵する禄高が与えられ、“○○守” の官位も授けられた。
❽【町奉行】(まちぶぎょう)
【寺社奉行】【勘定奉行】とともに “三奉行” のひとつとして「評定所」(上「寺社奉行」のところにて説明)の主要メンバーでもあるため幕政にも深く関与する。
定員は 2 人で、それぞれ「北町奉行所」と「南町奉行所」に分かれ業務を行ったが、ひと月ごとに担当窓口を交代(月番制)するだけで管轄を南北に分けていたわけではない。
特に【目付】を経験していることが重要視され、【目付】から【遠国奉行】【勘定奉行】等を経て 司法・民政・財政 などの経験を積んだ者が主に任命された。
その職務は多忙を極め、時代劇で見られるような、奉行一人で現場に赴いたり捜査することなどは実際には不可能であった。
また、時代劇では【町奉行】が単独で “獄門” だの “遠島” だのの重い刑罰を言い渡しているが、本来【町奉行】だけの権限で言い渡せるのは軽いものだけで、重追放以上の重い刑罰は【老中】に上申してその採決を待ち、更には将軍の最終決裁を経なければ確定は出来なかった。
【町奉行】の役宅(住居)は奉行所内にあり、公私分かたぬその激務から在任中に過労死する者も多かったとされる。
有名な時代劇〖大岡越前〗は、《大岡 忠相》が【町奉行】=【江戸南町奉行】を務めていた時の物語(フィクション)ですが、世に言う「大岡政談」=「名裁きの数々」は、そのほとんどが後世の創作か、あるいは “他人の名裁き” が置き換えられたものだとされています。
中でも『三方一両損(さんぽういちりょうぞん)』なるお話はあまりにも有名。
ご存知ない方はクリックにてどうぞ。
❾【町方役人】(まちかたやくにん)
が、広いエリアと膨大な人口を抱える江戸の町をたったの 250 名で守るなどは到底不可能で、このため【同心】達は自身の “手足” として町民の中から【目明し(めあかし)】(【岡っ引き】や【親分】とも)と呼ばれる者や、さらにその子分(【下っ引き】とも)などを自腹で雇うなどもしていました。(総勢で数千人)
また、重罪とされた “放火” や “盗み” については【若年寄】直属の【火付盗賊改め】が別途任命され、【町奉行】とともにその取締りにあたった。
当然ながら【与力】も【同心】も幕臣としての身分は「御家人」ですが、職務柄方々からの “付け届け”(袖の下?)などが多く、また幕府より拝領した広い屋敷(【与力】=約 300 坪程度・【同心】=約 100 坪程度)を他人に貸して家賃収入を得る者などもいたそうで、給料を遥かに凌ぐ副収入を得ていた者がほとんどだったようです。
【与力】に至っては「下級旗本」などよりもずっとリッチで、“江戸三大モテ男” のひとつだったそうな。
【同心】が自身のポケットマネーで【岡っ引き】や【下っ引き】を雇えたのも、こうした背景があってのことだそうです。
❿【勘定奉行】(かんじょうぶぎょう)
定員は概ね 4 名で、【大目付】【町奉行】と同じく 3000 石クラスの「旗本」より任命された。
今に言う “財務大臣” みたいなものだが、【寺社奉行】【町奉行】とともに “三奉行” のひとつとして「評定所」(上「寺社奉行」のところにて説明)の主要メンバーでもあるため幕政にも深く関与する。
また、【郡代】【代官】を指揮統括して幕府直轄地(天領)をも支配する。
【勘定奉行】は時代劇では【代官】とともに “ワル” の定番ですが、同じ【老中】直属の「【普請(ふしん)奉行】や【作事(さくじ)奉行】もそこそこワル多し。
前者は “土木”、後者は “建築” 関係を取り仕切る役職で、いかにもって感じです。
⓫【郡代・代官】(ぐんだい・だいかん)
一応【郡代】の方が手当ても多く格上とされるが、両者の職務範囲に大きなちがいはなし。
【代官】の場合、基本「下級旗本」より任命されるが在地の有力者を任命する場合もあり。
身分の割には支配地域(【代官】でも数万石単位)や権限が大きく、限られた人員(一般的に部下の「御家人」が 10 名程度と現地採用のスタッフが数名程度)のなか彼らの仕事は多忙を極めた。
また、時代劇で定番の “悪代官” は現実にはそうおらず、過酷な年貢の取り立ては農民の逃亡につながり、かえって年貢の収量が減少するため、評判の悪い【代官】はすぐクビになる政治体制が整っていた。
実際【代官】の支配地=「天領」は、他の【大名】の支配地=「藩」よりも暮らしやすかったと言われている。
あまりいなかったとは言え、まったくいなかったわけではない “悪代官”。
平均3割程度だった天領の年貢を、いつぞやの播磨国の【代官】は9割近くも取り立てていたことが確認されているそうです。
⓬【勘定吟味役】(かんじょうぎんみやく)
基本 500 石クラスの「旗本」(時には「御家人」)より任命された役職で、ある時期以降は直属の部下 13 名もつけられ、独立した検査監査機構としての体制が整った。
勘定所内では【勘定奉行】に次ぐ地位であったが、財政支出を決定する際には必ず【勘定吟味役】の同意を要し、また【勘定奉行】より切り離された【老中】直属のポジションであったため、【勘定奉行】をも含む何らかの不正を発見した場合などには躊躇なく【老中】に報告することができた。
「御家人」が到達できるほぼ最高の役職とされ、これ以上の昇格は非常にまれであった。
あまり馴染みのない役職ですが、時代劇では “脇役” としてご登場多し。
【勘定奉行】とグルになって不正をするか、あるいは不正をしている【勘定奉行】に気付いたため殺される、ってのがよくあるパターン。
⓭【遠国奉行】(おんごくぶぎょう)
【老中】直属のポジションのため、同じ天領支配者でも【勘定奉行】指揮下の【郡代】【代官】よりかはグンと格上。
13 奉行(【長崎奉行】【伏見奉行】【山田奉行】【日光奉行】【奈良奉行】【堺奉行】【佐渡奉行】【浦賀奉行】【下田奉行】【新潟奉行】【箱館奉行】【神奈川奉行】【兵庫奉行】)と、3 町奉行(【京都町奉行】【大坂町奉行】【駿府町奉行】)とで構成され(幕末時点)、主に 1000 ~ 2000 石クラスの「旗本」より任命された。
(※ 内【伏見奉行】のみ「大名」より任命されたが、最上位とされるのは【長崎奉行】)
8代将軍《徳川 吉宗》より【江戸南町奉行】に大抜擢された《大岡越前》ですが、彼の前職が天領の伊勢を支配した【山田奉行】。
《吉宗》がまだ紀伊藩主だった当時、紀伊藩領と天領との境界争いを裁決するにあたって、「御三家」たる紀伊藩に臆することなく公正さを貫いたその人間性が、逆に《吉宗》の心を掴んだとされています。
⓮【目付】(めつけ)
江戸城内に拠点を置き、配下の【徒目付(かちめつけ)】や【小人目付(こびとめつけ)】を動かしながら、「旗本」「御家人」の監視をメインに政務の全般を監察し、また一部の犯罪については裁判権をも行使した。
有能な人物が任命され、その後【遠国奉行】【町奉行】【勘定奉行】などに昇進した者も多く、特に【町奉行】に就任するためには【目付】を経験していることが必須とされた。
また、【老中】が政策を実行する際も【目付】の同意が無ければ実行不可能とされ、さらには将軍に “反対” の理由を述べる事をも許された。
上層部からの調査命令を直下の【徒目付組頭(かちめつけくみがしら)】に伝え、【徒目付】【小人目付】ら前線部隊を動かすことによってそれを実行した。
⓯【火付盗賊改め】(ひつけとうぞくあらため)
主に 火付け(放火)・盗賊(押し込み強盗団)を専門に捜査した【若年寄】直属の役職だが、正規のものではなく、「先手組(さきてぐみ)=下にて説明」のボスたる【先手頭(さきてがしら)】が兼任したという異色の役職。(江戸末期には専任制となる)
そのため決められた役所はなく、【先手頭】などの役宅を臨時の役所として利用した。
江戸前期における盗賊が武装強盗団であることが多く、それらが抵抗した場合非武装の町奉行所では手に負えず、また捜査撹乱を狙って犯行後に火を放ち逃走するといった手口も横行したことから、これらを専門に武力制圧するため設置された。
「町人」しか取り締まれぬ【町奉行】とはちがい、「武士」(【目付】管轄)や 「僧侶」(【寺社奉行】管轄)であっても疑わしい者は容赦なく検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。
町の人々はそんな【火付盗賊改め】の捜査を “乞食芝居” などとさげすみ、またもう一方の捜査機関たる町奉行所の【与力】や【同心】 たちからも嫌われていた記録が見られる。
なお、裁判権についてはほとんど認められておらず、“たたき刑” 以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては【老中】の裁可を仰ぐ必要があった。
「先手組」とは、本来は戦場で槍(やり)や鉄砲を構え先陣を務める “足軽部隊” のことを言いますが、太平の世になってからは主に 江戸城各門の警備・将軍外出時の警護・江戸城下の治安維持 等に従事しました。
【火付盗賊改め】を兼ねた【先手頭】は、登城時に同行するなど「大名家」との接点も多く、由緒ある家柄の「旗本」(1500 石クラス)から主に任命されたそうです。
ただ、職務柄血気盛んな者が多かったらしく、時代劇でもやはり “悪役” がメイン。
人情深く、庶民からの人気も高かった実在の人物、《長谷川 宣以(のぶため)》=時代劇〖鬼平犯科帳〗の “鬼の平蔵” は、例外中の例外と言えるでしょう。
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