【はじめに】
人気時代劇「暴れん坊将軍」で毎回ご登場の「御庭番(おにわばん)」。
将軍の命令で悪事を探り、ラストのクライマックスでは忍者のようなイデタチで大暴れ !
…てのがお決まりのパターンですが、どうやら実際とはかなり違う様子。
そもそも彼ら「御庭番(御庭番衆)」は、いわゆる “忍者” などではなく、紀州藩主だった《徳川吉宗》が 8 代将軍として江戸城へ移った際、或いは彼の母や子が江戸城へ移った際、それに伴って随行した “元紀州藩士” をその起源としているのです。(元紀州藩士=紀州根来寺の僧兵=根来忍者、とする説も一応あり)
幕府正式職としての「御庭番(御庭番衆)」が発足するまで、それら紀州藩士の一部は形式上「広敷伊賀者(ひろしきいがもの)」(江戸城大奥の警備職)に編入されましたが、既存の彼らとは職域も収入も区別され、その主たる任務は当初より “隠密”(諜報活動)とされました。
やがて制度が整い、初代「御庭番」として任命されたのは計 17 名。
そして、彼らの家筋(実家 17)、および彼らの弟や次男・三男などで後に「御庭番」に任命された者の家筋(別家 9)、の計 26 家に属す者のみが代々その職を引き継ぐことと定められたのです。(※ 内 4 家については途中で解任)
時には江戸市中にて、時には遥か遠国にて、将軍の “目” となり “耳” となり様々な不正や実態を探索した彼らの真の姿とは果たしてどういったものだったのでしょうか。
てなわけで、今回は江戸時代、8 代将軍《徳川吉宗》が設置した将軍直轄の隠密組織「御庭番(御庭番衆)」をご紹介。
「御庭番(御庭番衆)」の設置と位置付け
「御庭番(御庭番衆)」とは、前述したように 8 代将軍《徳川吉宗》が設立した “将軍直轄” の諜報組織で、幕府においてのポジションは上図の通り。
江戸幕府の政務は、当初より複数名からなる「老中(ろうぢゅう)」の合議によって運営されていましたが、将軍によっては最も信頼厚き者を「側御用(そばようにん)」や「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」などに任命し、彼らの意見を老中以上に重きものとしました。
《吉宗》もその一人で、将軍に就任するや否や、側近のほとんどをかねてより信頼してきた紀州藩時代の重臣で固めたのです。
ただ、城の奥深くに籠って外出など滅多にしない将軍はどうしても世情に疎くなりがちで、老中たちに操られることなく政治を主導するためには、自身に代わる “手足” “目” “耳” となる者がさらに必要でした。
時代劇「暴れん坊将軍」のごとく “しんさん” などと身分を偽り、将軍自らが城外をウロウロするなどけっしてできなかったはずです。
そうした中で登場することとなったのが、“元紀州藩士” のみで構成された「江戸城御庭番」でした。
かねてより “旗本・御家人を監視” する “隠密” が「目付(めつけ)」の配下にはおり、また “大名を監視” する「大目付(おおめつけ)」などもいるにはいてましたが、他の者に悟られず、スピーディーかつ正確に情報収集するためにはどうしても “将軍直轄” の新たな組織が必要だったのです。
将軍と「御庭番」とのやりとりには、基本「側用人」なり「御側御用取次」なりを介しましたが、時には将軍直々に密命を下すこともあったらしく、いかに信頼を寄せていたかが分かります。
三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)など重職にある者たちもしっかり監視対象にされてたそうなので、たとえ身分が低くとも「御庭番」は恐るべき存在だったにちがいありません。
「旗本(はたもと)」とは 1 万石以下の将軍直属の家臣(直参(じきさん))のうち “将軍に謁見できる者” をいいます。
同じく直参で、“将軍に謁見できない者” は「御家人(ごけにん)」です。
両者の格差は大きく、「御家人」から「旗本」への昇進はよほどの功績でもない以上はムリでした。
が、将軍の厚き信頼の中で、下っ端の「御庭番」でもその多くは後に「旗本」へと昇進したそうです。
中には「御家人」出身ながら幕府重職たる「勘定奉行」(旗本)にまで取り立てられた者も。
元祖「御庭番」は元紀州藩「薬込役」
江戸城入りした元紀州藩士 205 名のうち「御庭番」となった 17 名はほぼ全員が紀州藩時代「薬込役(くすりごめやく)」という役職に就いていた者でした。(1 名のみ「馬の口取」= 馬の引き役 より任命)
「薬込役」は、元はその名の通り “鉄砲に玉や火薬を詰め込む役” だったそうですが、いつしか女中などの警護を担うようになり、時には藩主の命令によって諜報活動なども行っていたそうです。
ちなみに、江戸城入りした元紀州藩「薬込役」の 16 名ってのはさぞかし優秀な精鋭たちかと思いきや、数多くいた「薬込役」の勤務シフトで “順番上たまたまそうなっただけ” なんだとか。
制度が整い、初代「御庭番」17 名に与えられた職名は「伊賀御庭番(いがおにわばん)」。
“伊賀” とはいえ “伊賀者”(忍者)とは何ら関係なく、これは最初に編入されていた “「広敷伊賀者」と同格の身分である” といった意味合いでつけられた職名だそうです。
設立当初は下っ端の「御家人」身分で階級も何もありませんでしたが、やがてはその上に 4 つのポストが設けられ、活躍等により昇進することが可能となりました。(以下参照)
「御庭番」の階級
【御目見以上】(旗本)
❶〖両番格御庭番〗
❷〖小十人(こじゅうにん)格御庭番〗
【御目見以下】(御家人)
❸〖添番(そえばん)御庭番〗
❹〖添番並(そえばんなみ)御庭番〗
➎〖伊賀御庭番〗
※ 参考 ⇨ ❷・❸ の収入は ❶ の半分 / ❹ の収入は ❶ の半分の半分 / ➎ は不明
先代の活躍等ですでに家筋が【御目見以上】(旗本)にランク付けされている場合、その家から任命される「御庭番」は最初から ❶ か ❷ のポストが与えられたそうです。
江戸幕府と「忍者」の関係
1603 年の江戸幕府成立以降、幕府により重用されたスパイ軍団が伊賀および甲賀出身の、いわゆる “忍者” です。
事の発端は、1582 年に起きた「本能寺の変」までさかのぼります。
当時《織田信長》と同盟関係にあった《徳川家康》は、ちょうどその時、僅かな家来だけを引き連れて大阪(堺)から本能寺のある京都に向かっている最中でした。
その途中、早馬で《信長》の死を知らされた《家康》は、自身の命をも危険にさらされていることを即座に悟ります。
一刻も早く自国の「三河(みかわ)」(現愛知県)へ逃げ帰らねばならぬものの、主要街道は敵に封鎖されているのは明白。
周囲の国々も事件の首謀者《明智光秀》の同盟国ばかりで、助かる可能性があるのは険しい山々を東に突っ切って伊勢湾から船で脱出するルートのみ。
「落ち武者狩り」がウヨウヨ待ち構えるこのルートも決して安全ではなかったですが、この逃避行にて《家康》を最後まで守り抜いたのが甲賀や伊賀の地侍、俗に言う “忍者” だったってわけです。
かくして彼らはその後、“家康公の命の恩人” として隠密や警備を中心に幕府から重用されることとなりました。
この逃避行は「神君伊賀越え」と言われ有名ですが、そのルートは複数説存在し、イマイチ定かではありません。
とりあえずザックリとは地図矢印のごとし。
【参考サイト】
〖家康の「伊賀越え」と甲賀・伊賀者〗(三重県 HP)
一般的には “宿敵のライバル” と思われている “伊賀者” と “甲賀者” ですが、「神君伊賀越え」からも分かるように両者は基本協力関係にあったそうです。
“お隣さん” と争っても双方何らメリットはなく、逆に有事にはお互いを助け合う同盟すら結ばれていたそうな。
当初は “隠密” として諜報活動に携わっていた “伊賀者” や “甲賀者” も、「目付」や「大目付」など幕府の監察制度が整いゆく中で、次第に通常警備をメインとする任務(「広敷伊賀者」など)へと切り替えられていきました。
「御庭番」の “表” の仕事と “裏” の仕事
将軍の命令とあらばどんなスパイ活動も行ったであろう「御庭番」ですが、いわゆる “隠れ蓑” として “表” の仕事(主に大奥や中奥近辺⦅下図〇⦆での警備・監視・取締り)もそれとは別に与えられていました。
「御庭番」の “表” の仕事の一例
“内密御用” に従事していない時はこれらのような仕事をこなし、氏名や収入など細かな個人情報も、他の家臣同様「武鑑(ぶかん)」なる出版物(以下参照)によって一般公開されていたそうです。
武鑑(ぶかん)とは、江戸時代に出版された大名や江戸幕府役人の氏名・石高・俸給・家紋などを記した年鑑形式の紳士録。
江戸時代になって多数の武家が都市に集まるようになり、武士と取引を行う町人達にはそれらの家を判別する必要があった。
武鑑はそのための実用書であり、また都市を訪れる人々にとってのガイドブックの役割も果たした。
大名を記載した大名武鑑、旗本を記載した旗本武鑑などがある。
Wikipedia
「御庭番」の “裏” の仕事(本来の職務)とは
「御庭番」の “裏” の仕事たる “内密御用” は大きく分けると以下 2 種類。
❶ 江戸城および江戸近辺での情報収集(江戸内地廻り御用)
❷ 江戸近辺以外(各藩や天領など)での情報収集(遠国御用)
❶ に関しては「旗本」や「御家人」等の身辺調査や町民の心情調査、❷ に関しては「大名」や「代官」等の身辺調査や各藩・天領の実態調査、などなどでその内容は多岐に渡り、長期出張の場合などは名目上 “病欠” として扱われました。
“内密御用” の命令は、「御側御用取次」があらかじめ「御庭番」家筋の長老やベテラン複数名に “任務に適した者” を選ばせ、その後本人に正式命令を下す、といった流れが慣例だったようです。
結果、「御庭番」として名は連ねていてもまったくお声が掛からず “表” の仕事だけで生涯を終える者も中にはいたんだとか。
悪代官も真っ青 ! …な「御庭番」の遠国御用
上様の命令とあらば、遥か遠くの藩や天領へも調査に出向く「御庭番」。
法外な年貢を取り立てて暴利をむさぼる大名や代官らも「御庭番」の調査が入ればもはやアウトです。
“遠国御用” 初任務の「御庭番」には、「誓詞(せいし)」(守秘義務などのあらゆる決まり事)を守ることを宣誓した書面を提出させ、また任務も複数名であたらせるなど、江戸近辺の調査に比べより一層の慎重を期しました。
徳川御三家や老中たちの国許であっても例外なく調査対象とされたため、当然この任務には相当能力の高い「御庭番」が選任されたと思われます。
通常 “内密御用” に携わった「御庭番」は「風聞書(ふうぶんがき)」(いわゆる調査報告書)を作成提出しなければなりませんでしたが、“遠国御用” の場合はそれとは別に、目的地との行き帰り中のアレコレを記した「道中筋風聞書(どうちゅうすじふうぶんがき)」なる報告書も添付しなければなりませんでした。
現存する某「道中筋風聞書」には、30 名近い大名や代官などの風聞の他、大名等の素行・米相場・賭博の取り締まり状況、などありとあらゆる内容が記されているそうで、本来の目的と併せたその調査範囲の広さには驚くばかりです。
提出される「風聞書」や「道中筋風聞書」には作成者たる「御庭番」の氏名も記入されましたが、将軍の閲覧後、何らかの必要から老中などにそれらを下げ渡す場合にはその氏名部分のみ切り取られました。
たとえ幕閣の老中といえど調査担当者が誰なのかを知ることはできませんでした。
任命された「御庭番」は “御証文”(出張証明書)と “御手当金”(出張費用)を受け取ると、時には数ヵ月やそれ以上にも及ぶ遠隔地調査へと出向いていきました。
当然にその身分は偽装されてたでしょうが、将軍直属の使者とあらば厳しい関所なども書類チラリですんなりパスできたにちがいありません。
“サボり” も一流だった「御庭番」
晴れて任務を完了し、無事江戸へ戻った暁には「御褒美金(ごほうびきん)」とやらが支給されたらしく、「御家人」など低階級の「御庭番」にとってはこれがかなりの “生活の足し” になっていたようです。
この「御褒美金」は “出発から帰宅までの日割り計算” で支給されたそうですが、出張前後の数日間はこっそり自宅で過ごしてその分も GET するというテが常態化していたとか。
一応 “事前準備” だの “報告書作成” だのといった大義名分はあったようですが…
秘密裏に “サボる” というテクニックもさすがだったようです。
おすすめ書籍
今回の記事執筆にあたって大きく参考にさせて頂いた、深井雅海 著 の書籍【江戸城御庭番 徳川将軍の目と耳】(上画像)は、現存する史料を存分に活用しながら「御庭番」の実際の姿を可能な限り明らかとした作品です。
時代劇などでしか知らない「御庭番」の真の実像を詳しくお知りになりたい方はぜひご一読されてみてはいかがでしょうか ?
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