【はじめに】
普段はおとなしい人が、ハンドルを握ったとたんスピード狂に変身したり、また、マイクを持てば激しい歌を熱唱しまくる、なんてのは世間一般どこにでもよくある話。
が、それとはまたちがって、ある特定の物のみ、手にしたり、または身に着けたりすることによって、人格が別人のように変わってしまう、なんて人も世の中には少なからずいらっしゃるようです。
男性の “勝負ネクタイ” や女性の “勝負下着” なんかも、人によればそれに近いものがあるのかもしれません。
ま、原因が “モノ” にあるのか “ヒト” にあるのかはともかく、それが周囲に害をもたらさなければ何ら問題はありませんが、こと人命にかかわるとなると話は別です。
『手にした人間を殺人鬼に変える』
ともされた、その最も有名であろう “モノ” が、“徳川家を滅ぼす” や “血を求める” などの悪しき噂で世の人々から恐れられた日本刀、【村正(むらまさ)】です。
俗に言う【妖刀(ようとう)】。
戦国時代には “名刀” として名を馳せていた【村正】が、なぜ江戸時代以降は “妖刀” などと呼ばれるようになったのか…
てなわけで今回は、日本刀【村正】の、謎多き “妖刀伝説” の背景や真相をちょいとばかし探ってみました。
なお、本記事は “妖刀” としての【村正】に主眼を置いたものであり、“日本刀” や “骨董品” としての【村正】を詳しく記したものではありませんので悪しからず。(そっち方面は Wikipedia ででもどうぞ)
比類なきその切れ味(斬れ味)! 名刀&妖刀【村正】 ~ 基本編 ~
さて、いきなり質問です。
上に妖しい光を放つ有名な日本刀が3本並んでいますが、仮に大きな肉の塊を一刀両断にするとして、どの刀で試してみたいでしょうか?
迷わず『真ん中!』と答えたあなたの御先祖は、“辻斬り” の罪で打ち首になっているかもしれません。
上から順に【正宗(まさむね)】・【村正】・【備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)】と言われているもので、江戸時代以降、何かと悪い噂や不気味な伝説で物議を醸し、世の人々より “妖刀” として忌み嫌われてきたのが “真ん中” の【村正】です。
時代劇やアニメなどでは、“【村正】を手にした者が狂気に満ちた形相で夜な夜な道行く人を斬り殺す” てなシーンは定番中の定番でもあり、そっち方面からご存じの方も多いのではないでしょうか。
ま、奇々怪々な噂はともかく、戦国時代より “実戦刀” として最高ランクに位置付けられていた【村正】の切れ味(斬れ味)は、実際手にした者の多くが “これで人を斬ってみたい” と思ってしまうほどに凄まじいものだったようで、そうした “妖しい魅力を持つ刀” といった意味からすれば【村正】は紛れもなく「妖刀」です。
個人的には、上写真の【正宗】と【備前長船兼光】は見た目が美しく、飾って眺める分には申し分ないけど血で汚したくはないな、と思いました。
ちなみに、【村正】を広く『村正』と言った場合、それはある特定の1本を指すわけではありません。
【村正】の場合、子孫や弟子など、初代の技術を受け継いだ者の作った刀は、その多くが『村正』と呼ばれているので、いつ誰が手掛けた作品かによって、その デキ・希少性・骨董的価値 などにも少なからず差があります。
(例えば、《千子 村正 / 初代?》・《右衛門尉 村正 /2代目?》・《藤原朝臣 村正 /3代目?》などなどで、歴代中《右衛門尉 村正》と《藤原朝臣 村正》の作品が最も高評価とされているようです。…が、情報が入り乱れていて、これら内容のどこまでが正確なのかは正直言ってよく分かりません)
なお、戦国時代(推定 1500 年頃)から江戸時代(推定 1600 年代後半頃)にかけて【村正】と呼ばれる刀はかなりの本数が作られたようなので、つまりは「妖刀」もそれだけの本数存在したってことになります。
名刀【村正】の発祥は?
通説によれば、名刀【村正】を世に生み出した “初代” の名は《千子 村正(せんご むらまさ)》で、1501 年以前のどこかの時点で現在の三重県桑名市(当時の伊勢国桑名)にて工房を立ち上げたとされています。(画像参照)
ただ、彼の “生誕地” や “初代かどうか” などについては、正確な記録が残されてない上、諸説あって定かではありません。
“生誕地” については、刀の作風などから、修業を積んだと思われる現岐阜県の「関市」や「大垣市」が有力とされているようです。
また、現存する “年号の刻まれた【村正】” の最古の年号が「1501 年」であることから、その時代に生きた《千子 村正》が “初代” であろうとするのが通説ですが、他の背景等から、彼を “3代目” とし、1400 年代前半頃の人物を “初代” だとする説も中にはあります。
江戸時代以降に広まった “妖刀伝説” のひとつとして、『初代《村正》は気の狂った人物であり、その狂気が刀にも宿っている』としたものもあるようですが、以下の記述が正しければまったくもって事実無根と言わざるを得ません。
初代《村正》は、後世の噂では「気が狂った性格」と中傷される。
だが、実在の《村正》は、冷静な頭で人が行き交う自由貿易都市の「桑名」を刀作りの本拠地に選び、また、交友関係が広く研究熱心で、他の刀鍛冶との合作刀を何本も作っている。
作品には【妙法村正】を始め神仏の加護を祈った傑作が多くあり、市内の各神社には寄進刀も残されているなど、敬虔な人柄を思わせる物証が多い。参考:Wikipedia
コスパ最高! 徳川家家臣(三河武士)たちがこぞって買った名刀【村正】
【村正】が “妖刀” だなどと噂されるようになったのは、家康の祖父《徳川 清康(とくがわ きよやす)》が、家来に惨殺された際に使用されたとされるなど、徳川家周辺の様々な不幸な出来事に何かとこの刀が絡んでいる、とされたのがそもそもの始まり。
当初は『徳川家を呪う』といったレベルにとどまっていたその噂も、やがては尾ひれを伸ばしながら膨らんでいき、さらにはそれらを後押しするかのような権威ある書物までもがいくつも世に出てきたことから、いつしか『持てば呪われる』だの『血を欲する』だのといった漠然たる “妖刀伝説” が世間に広く定着してしまったのでした。
が、先の地図からも分かるように、【村正】の本拠地「桑名」は、徳川家の本拠地「三河」の目と鼻の先にあり、当時より『恐ろしくよく斬れる』と評判の高かった【村正】は、必然的に三河の武士にも大人気となりました。
価格も当初は安かったらしく、今風に言えば『コスパ最高!』てな刀だったのでしょう。
三河武士=徳川の家臣たちに愛好者が多くいたことから、徳川家周辺の様々な逸話や伝説に何かと【村正】が登場するのは、何ら不思議でもない当然のこと
でもあったのです。
有名な【村正】の斬れ味伝説
“妖刀伝説” が広まるより前の戦国時代に、《豊臣 秀吉》の甥にあたる関白《豊臣 秀次(とよとみ ひでつぐ)》が、愛刀の【村正】を用いた “試し斬り” を人体を使って行い、「一の胴」の部位での “胴体一刀両断” を七回も達成した。
「一の胴」とは、江戸時代後期では斬りやすい “みぞおち” の辺りを指すが、江戸時代前期までは “乳頭のやや上の肋骨が多い箇所” を指したので、難易度が高い部位だった。
その時使用された【村正】にはその威力を称賛した〚一胴七度(いちのどうしちど)〛といった銘が金象嵌で施された。(画像内○)参考:Wikipedia
真偽不明、出所不明の【村正】伝説
一方、【正宗】には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかった。(Wikipedia)
【村正】の “妖刀伝説” が広まったその背景とは
【村正】の “妖刀伝説” を世の中に広く根付かせたとされるその代表的書物が、❶【三河物語】❷【松平記】❸【三河後風土記(みかわごふどき)】❹【耳嚢(みみぶくろ)】❺【改正三河後風土記】❻【御実紀(ごじっき)】などなど。
そのうち、“妖刀伝説” 発祥の主犯格が ❸、話を大きく膨らませた主犯格が ❹、“お墨付き” を与えた主犯格が ❺・❻、てな感じではないでしょうか。
その流れを大まかに記せば…
❶ 初期の徳川家創業史【三河物語】にて、家康の祖父《徳川 清康》が、自身の家来《阿部 正豊(あべ まさとよ)》に【村正】で背後から惨殺された事件(「森山崩れ」)が記される。
❷ 同じく初期の徳川家創業史【松平記】にて、上「森山崩れ」に加え、家康の父《徳川 広忠(とくがわ ひろただ)》が家来の男(姓名諸説あり)に【村正】で斬り付けられて負傷した事件が記される。
(編纂年が【三河物語】よりも先か後かは不明)
❶ と ❷ に関しては、【村正】を “妖刀” として扱っているのではなく、あくまで “事件に使われた一つの凶器” としてその事実を紹介しているのみ。
特に ❶ の【三河物語】は、著者の父が事件当時《清康》に仕えていたことなどからも信憑性確実とされています。
徳川家の家臣たちに名刀【村正】が広く浸透していたのは前述のごとし。
❸ その後に編纂された徳川家創業史【三河後風土記】にて、上の両事件が脚色され、さらには根拠なき事柄(家康が【村正】の槍(やり)で指を切った、など)も何かと書き加えられ、のちに広がる “妖刀伝説” の大元となった。
❹ 佐渡奉行 → 勘定奉行 → 江戸南町奉行 を務めた《根岸 鎮衛(ねぎし しずもり)》により著された【耳嚢】など、信憑性に乏しい【三河後風土記】を主な根拠とした書物がいくつも世に出され、一層に話がねじ曲げられ、歌舞伎や浮世絵などでもそれらの多くが題材とされたことから、あらゆるパターンの “妖刀伝説” が広く庶民にまで浸透した。
❺ 江戸末期には、将軍命により【三河後風土記】の改訂版たる【改正三河後風土記】が編纂されたが、“妖刀伝説” の部分に関しては削除訂正されることはなく、また、幕府正史として出版された【御実紀】においても、附録に事実無根の話(家康が直々に【村正】の所持を禁じた)が掲載されるなど、“妖刀伝説” に官撰としての “お墨付き” までもが加わった。
(実際は、家康自身【村正】の大小2本を生涯にわたって所持し、死後は御三家筆頭の尾張徳川家へ “家宝” として譲られてもいる)
江戸時代以降は悪評風評により多くの人々に敬遠された【村正】でしたが、一部の幕府政治に不満を持つ者、特に幕末の「倒幕の志士」などは、“徳川を呪う刀=縁起の良い刀” として、“ゲン担ぎ” の意味であえて持つ者も多かったようです。
「吉原百人斬り事件」の凶器はホントに【村正】?
1700 年代前半頃に実際にあったとされる「吉原百人斬り」なる事件。
《佐野 次郎左衛門(さの じろうざえもん)》なる男が、吉原の遊女《八ッ橋》にふられた腹いせに、《八ッ橋》&その他多数を殺傷したとされる有名な事件で、歌舞伎などでは “妖刀”【村正】とこの事件とを結び付けた演目が今現在においても人気となっているようです。
が、事件を考証した《馬場 文耕(ばば ぶんこう)》なる江戸中期の講釈師によれば、事件で実際に使われた日本刀は【村正】ではなく【国光(くにみつ)】と言われるものなんだそうな。
ちなみに、犯人《佐野 次郎左衛門》は、事件後、屋根伝いで逃走を図ったものの、地上から水をかけられて転落し、捕まり、死罪となったそうです。
ぜひ訪ねてみたい〚村正ミュージアム〛(桑名宗社 眺憩楼)
当神社の所蔵する「村正」は美術的、歴史的にも貴重な作品であり、村正の代表作とされます。天文 12 年(1543 年)に村正自身によって奉納された作品であり、その刀に刻まれた銘文は、現存する「村正」の刀剣の中で最長とされ、歴史的に極めて貴重とされます。
全国屈指の知名度を誇る「村正」ですが、その刀が桑名で作られていたという事実を知る人は少なく、また桑名で常設展示をする施設がないことは誠に残念な限りでございました。所蔵する「宝刀村正」は三重県指定文化財であって、管理と展示には大幅な制限がかかります。そのため令和2年2月に「宝刀村正写し奉納プロジェクト」としてクラウドファンディングが実施されました。そして忠実な「写し」を作刀し、展示施設を整えることで、その存在を示しつつ、歴史と文化を発信する場所が整いました。
桑名宗社 HP より一部抜粋
【その他参考動画】 「桑名市博物館」でも拝める名刀〚村正〛
〖【刀剣ワールド】「桑名市博物館」刀剣に会える場所|刀剣展示 博物館の日本刀 YouTube動画〗
意外にお手頃⁇ 【村正】の 模造刀 & 居合刀
戦国時代は最高品質ながらも “お手頃価格” だったらしい【村正】。
現代においては “ホンモノ” はそう簡単には手に入らないでしょうが、「模造刀」や「居合刀」の【村正】であれば Amazon や楽天などでもチラホラ売られています。
当然「模造刀」も「居合刀」も “真剣” ではないので “試し斬り” などはできませんが、「居合刀」に関しては簡単には壊れぬ丈夫なつくりになっているようです。
気に入った1本(なるべくなら居合刀)を手に入れ、部屋の片隅にでも飾っておけば、いざという時には 防犯グッズ・護身グッズ としても役に立ってくれるかもしれませんね。
ふるさと納税で【村正】GET!(“刃物の本場” 岐阜県 関市)
「ふるさと納税」についてあまりよくご存じない方は、以下記事内にて分かりやすく説明しております。
うまくすれば、アレもコレもを 2000 円ポッキリで手に入れることができるという、政府お墨付きのオイシイ制度ですので利用しないテはありません
【参考動画】「模造刀」と「居合刀」のちがい
〖殺陣講座35話【模造刀と居合刀】それぞれの性質を徹底考察!あなたの刀剣ライフは?〗
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