【はじめに】
なりませぬ…
男子禁制…
この言葉にエロエロさやドロドロさをイメージしてしまう男性はワタクシだけであろうか…
古今東西 “男子禁制” なるものは多々ありましょうが、わが日本においてその最たるものはやはり江戸時代の「大奥」でしょう。
“エロエロ” や “ドロドロ” を連想してしまうのは、おそらくはこの大奥が原因です。
テレビや映画などでも何かと題材にされることが多いので、ある程度のことはみなさんもご存知なのではないでしょうか。
「大奥」を簡単に言えば、江戸時代初期、江戸城を裏で支え、かつ、【将軍】の跡取り(男子)を確実に得んがため組織された女ばかりの集団 & その支配エリアのことです。
大奥は【2代将軍】「徳川秀忠」の時代に誕生し、【3代将軍】「徳川家光」の時代に完成されました。
自由気まま大奥に足を踏み入れることができたオトコは基本【将軍】のみで、ようするに…
『跡継ぎを確実に得るためたくさんの女性と思う存分エッチができるようにしよう!』
ってなわけです。
とはいえ、【将軍】と直接 “子作り” ができるのは一握りの奥女中のみで、ほとんどの女性は朝から晩まで下働きに明け暮れるだけの毎日でした。
【将軍】の “代替わり” や “方針転換” などで予算や定員などが大きく変わった時期もあったようですが、多い時には 1000 人近くもの女性達が大奥を支え、また、その職務や役職・階級なども上から下まで細かく定められていました。
が、守秘義務が徹底されていたこともあって、その実態や内部事情などが世間一般にさらされたのは大奥が解体されてから。
てなわけで今回は、明治以降ようやく明らかとなった、欲望・嫉妬・確執渦巻く江戸美女の総本山、「江戸城大奥」のアレコレを秘話も交えわかりやすくご紹介。
「大奥」の場所は江戸城のどこにあった ?
「大奥」は江戸城の主だった4つの区域、《西の丸》《本丸》《二の丸》《三の丸》 のうち《本丸》の中にありました。(上【画像 1】参照)
(※《本丸》以外にも “大奥” と呼ばれるエリアはありましたが、隠居した【元将軍】やその妻などが住む特殊なエリアでもあるため、本記事では割愛させて頂きます。)
一般的に言われる「大奥」は、《本丸》の中の「表(おもて)」⇨「中奥(なかおく)」に続く最奥のエリアを独占し、そこを活動の場としていました。(上【画像 2】参照)
ちなみに、一番手前の「表」とは幕府役人が政務を執り行っていたエリアで、その次の「中奥」とは【将軍】個人が執務 & 生活していたエリアを言います。
表と中奥をあわせても 4700 坪しかないのに対し、大奥はそれ単体だけで 6300 坪という広大なエリアを与えられていました。
なんと江戸城《本丸》の約 56% にも相当する面積です。
1000 人近くもの女性が働き、住み込みもしていたのだから当然っちゃあ当然でしょう。
大奥エリアの内部はさらに 3 つのブースに区分けされていて、まずメインブースが、【将軍】の正妻たる【御台所(みだいどころ)】の居室や女中達の仕事場などからなる〈御殿向(ごてんむき)〉、次に女中達の居住ブースである〈長局向(ながつぼねむき)〉、そして警備や事務など男子役人(広敷役人)の執務ブースである〈広敷向(ひろしきむき)〉、で構成されていました。(上【画像 2】参照)
ですので、大奥の全てのエリアが “【将軍】以外男子禁制” だったってわけではありません。
ちなみに、【将軍】のみが通行を許される “中奥と大奥をつなぐ廊下” を「御鈴廊下(おすずろうか)」といい、通行を知らせるための鈴が取り付けられていたことからこう呼ばれたそうです。(上【画像 2】参照)
誰とでもエッチ OK ? 上様(将軍)は「大奥」でしたい放題 ?
大奥は酒池肉林のハーレム ?
【将軍】は気に入った女中とエッチし放題 ?
…というのはさすがにありえなかったようで、枕を共にできたのは、実際はごく一部の女中とのみだったようです。
大奥の職制で、【将軍】に直接謁見できる役職は総じて【御目見以上(おめみえいじょう)】と呼ばれ、それ以下の役職の者は【将軍】に近づくことはおろか、顔を拝むことすらできませんでした。
で、その【御目見以上】の中では【将軍】の “子作り役” として〖御中臈(おちゅうろう)〗なる役職もそれ専門に設けられており、【将軍】は基本この中より相手を選ぶこととされていたのでした。
当然〖御中臈〗の身分はかなり高く、20 程度からなる大奥役職の中でも上から 5 番目となっています。(詳細後述)
【将軍】はどの〖御中臈〗ともエッチし放題?
〖御中臈〗は、【将軍】の身の周りを世話する “【将軍】付きの〖御中臈〗” と、【将軍】の正妻を世話する “【御台所】付きの〖御中臈〗” とに分けられており、【将軍】の “夜のお相手” はほぼ前者の中から選ばれ、“格” も前者の方が上とされました。
ちなみにこの両者、お互いを軽蔑し合って仲はあまりよろしくなかったそうな…
一応【将軍】が気に入れば “【御台所】付きの〖御中臈〗” を誘うことも可能だったようですが、他の女中に取り持ってもらうなど回りくどい方法が必要となり、なおかつ、誘われた者にも “退職” とハカリにかけた “拒否権” が認められていたそうなので、あまり結ばれることはなかったのではないでしょうか。
奥さんに近い女性にはなるべく手を出すな、ってことでしょう。
ちなみに…
『【御目見以上】であれば〖御中臈〗以外の女性とも子作り可能だったのでは ??』
と、つい思ってしまうかもしれませんが、大奥では “御褥御免(おしとねごめん)” というシキタリがあって、30 歳以上になると、たとえ正妻といえども【将軍】の “夜のお相手” は辞退すべきとされていました。
一説によれば、“高齢出産による母体への負担が配慮された” からだとか。
【将軍】近くに仕える上級女中たちは概して高齢の者が多く、結果、それ用に集められた若い〖御中臈〗から相手を選ぶしか方法がなかったってわけです。
フェロモン大放出、女の情欲が本格的に花開くのはおそらくは 30 歳を回ってから…
奥女中たちの間でエッチなグッズ(後述)が大人気だったってのも大いに頷けます。
これぞ〖御中臈〗の出世コース! まずは「お手つき」から!
序列 5 位の〖御中臈〗ですが、【将軍】に見初められ、床に呼ばれ(お手つき)、子を妊娠・出産したともなれば【御台所】に次ぐポジション “【側室】” となり、驚異の大出世も夢ではありませんでした。
たとえ生まれた子が女の子だったとしてもです。
〖御中臈〗の一般的な出世コースをザックリ記せば以下の通り。
❶ 【将軍】付きの〖御中臈〗に就任
❷ 【将軍】と結ばれれば〖御手付中臈(おてつきちゅうろう)〗と呼ばれ “準側室” 的なポジションに昇格
❸ 懐妊により個室が供与される
❹ 出産すれば正式に【側室】となる
(男子出産なら【御部屋様(おへやさま)】、女子出産なら【御腹様(おはらさま)】と呼ばれる)
➎ 生まれた男子が次期【将軍】ともなればさらに絶大な権力を GET !
子作り現場はムード満点 ?
ところで【将軍】はどんな雰囲気の中で “子作り” に励んでいたのでしょうか。
それを知り、ワタクシなら絶対に “た○ない” と確信いたしました。
【将軍】と女中の “プレイ” は大奥〈御殿向〉ブースにある【将軍】専用の寝室(御小座敷(おこざしき))でなされましたが、なんとその隣の部屋では複数の女中が夜を徹して聞き耳をたてていたんだそうです。
もちろん “仕事” としてで、何かしらの異変が起これば即対応がなされたのでしょう。
さらに強烈なのはこちら。
【将軍】のお相手女中の隣に別の布団が敷かれ、監視役の女中がプレイ中の二人に背を向けて “寝ているフリ” をしていたといいます。
【将軍】と二人きりなのをいいことに、余計な告げ口やお願い事などをさせぬのが目的だったようです。
おそらくは “プレイ” の一部始終も事細かく上級女中達に伝えられたのでしょう。
『上様にお乗りになられて自らお腰を…』
などと報告されたら一大事になったに違いありません。
【将軍】に馬乗りなどすれば、この時代おそらく重罪です。
個人的には…
『監視役の女中はこの状況下でモヤモヤしなかったのだろうか ??』
てのが最も気になるとこではあります。
おそらくはこっそりと…
あ、いやいや、何はともあれ、そうした雰囲気の中でも⇗暴れん坊⇗になれる【将軍】様はやはりスゴイ !
「大奥」の職制(女中の 役職・階級 等)
大奥という女の園は厳然たる階級社会でした。
話の過程ですでに〖御中臈〗なる役職は登場しましたが、その他にも多数の役職があり、それによって仕事内容なども細かく定められていたのです。
また、役職が同じでも “【御台所】付き” より “【将軍】付き” の方が格上とされ、中にはどちらか一方にしか存在しない役職もありました。
“【御目見以上】と【御目見以下】の線引き” や “一部役職の上下” など若干曖昧とされている部分もあるようですが、これは正確な記録があまり残されてないからかもしれません。
てなわけで、いくつかの資料をもとに大奥の役職や仕事内容等をあとにご紹介しておりますが、あくまで “ご参考程度” ってことで。
大奥では当初より厳格な “守秘義務” が貫かれていたため、内部事情などその多くのことは “元奥女中” 達の暴露とあわせ明治以降に初めて明らかとなったそうです。
がゆえに、誇張されたり作られたりなど、事実無根の内容が独り歩きしている可能性も十分にありえます。
大奥では正式に登用されるとお偉方たちの面前で「誓詞」といわれる “決まり事” に目を通した上、最後に血判を押さなければなりませんでした。
“守秘義務” もその中の一つでした。
「大奥」のボスってどなた ?
一部前述しましたが、20 程度あった大奥の役職を大きく 3 つに分けると、【将軍】との接触が許された【御目見以上(おめみえいじょう)】と、【将軍】との接触が許されない【御目見以下(おめみえいか)】【部屋方(へやかた)】とになります。
【部屋方】とは、上級女中達が小間使いなど自分専用に雇い入れた女性達、いわば正規職員以外の者で、大奥では半数近くがこの【部屋方】だったと言われています。
当然これら女軍団の頂点に君臨していたのは将軍の正妻【御台所】で、それに次ぐポジションは将軍の子を産んだ【側室】ですが、実務上最も権力を握っていたのは、長年大奥に身を置きあらゆることに精通した〖御年寄(おとしより)〗なる役職の女性達でした。(下画像参照)
〖御年寄〗は表政治にいう〖老中(ろうぢゅう)〗と同様の立場で、大奥内の重要な決め事は複数からなる〖御年寄〗の合議によって全て決定されました。
派閥社会の大奥で出世するには、容姿だの実力だのより、まずは “真の権力者が誰かを見定めてその者に付く” ことが何よりも重要だったとされています。
尚、常駐ではなかったものの、〖御年寄〗の上に〖上臈御年寄(じょうろうおとしより)〗なる役職も時には存在しましたが、これは【御台所】専属の付き人みたいなもので、どちらかといえば大きな実権を持たぬ “名誉職” 的な存在でした。(上画像参照)
大奥の役職(階級)& 仕事内容 一覧
【御目見以上】
1.〖上臈御年寄〗
(じょうろうおとしより)
【御台所】の御用や相談役
常駐ではなく、輿入れ時に同伴してきた公家出身女性の名誉職的ポジション
下に〖小上臈(しょうじょうろう)〗とよばれる公家出身の見習い少女が付くこともあり
2.〖御年寄〗
(おとしより)
大奥の全てを取りまとめる実質的最高権力者
「お局(おつぼね)」や「老女(ろうじょ)」などとも呼ばれる
3.〖御客会釈〗
(おきゃくあしらい)
【将軍】やその他諸大名の女使が来訪した際の接待役
主に経験豊富な高齢女中が担当
4.〖中年寄〗
(ちゅうどしより)
〖御年寄〗の代理役
その他、献立のチェックや毒見も
5.〖御中臈〗
(おちゅうろう)
【将軍】や【御台所】の身辺世話役
【将軍】の “夜のお相手” も担い、主に若くて器量の良い名家出身の女性が選ばれた
6.〖御小姓〗
(おこしょう)
【御台所】の小間使い
今に言う小中学生くらいの少女から選ばれる
7.〖御錠口〗
(おじょうぐち)
最も重要な出入り口(中奥と大奥間の錠口)の管理
その他【将軍】の使者の取次ぎなども
8.〖表使〗
(おもてづかい)
“表社会” との外交役
主に〖御年寄〗の指示に従って広敷役人(事務方の男性役人)に物資調達を要請
9.〖御右筆〗
(ごゆうひつ)
大奥内の一切の公文書を管理・執筆
その他献上品の検査なども
10.〖御次〗
(おつぎ)
お膳や道具類の運搬整備や対面所の掃除
その他イベント時の遊芸役も
11.〖御切手書〗
(おきってかき)
外部からの来訪者が持つ通行手形「御切手(おきって)」を検査
12.〖御伽坊主〗
(おとぎぼうず)
.
【将軍】付きの雑用係
羽織袴を着用した坊主頭の女性で、【将軍】のプライベートエリア「中奥」への出入りも許された
13.〖呉服之間〗
(ごふくのま)
【将軍】や【御台所】の衣装の仕立て係
14.〖御広座敷〗
(おひろざしき)
〖表使〗の下働き
その他外部から女使が来訪した際の世話も
【御目見以下】
15.〖御三之間〗
(おさんのま)
「御三之間」より格上の部屋の掃除や上級女中の雑用係
デビューした “旗本” の娘は基本ここからスタート
〖御次〗とともに遊芸役も担う
16.〖御仲居〗
(おなかい)
大奥内の料理一切を担当
17.〖御火之番〗
(おひのばん)
大奥内を巡回しながら “火の元” をチェック
武芸にも秀でており警備全般も兼ねる
18.〖御茶之間〗
(おちゃのま)
【御台所】のお茶の世話
19.〖御使番〗
(おつかいばん)
〈御殿向〉と〈広敷向〉間の錠口の開閉や外部との取次
20.〖御末・御半下〗
(おすえ・おはした)
水汲みや掃除など雑用一切を担当
大奥女中の収入っていかほど ?
大奥女中の給与は “現金一括” ではなく、本給が “米” で、その他が “現金” & “現物” といった支給方法でした。
“米” で貰えたのは「御切米(おきりまい)」と「御扶持(おふち)」といわれたもので、前者は “現金交換” 用に充てられたいわゆる本給、後者は自身 & 自身が雇っている者が直接食べる “食料” として支給されたものです。
“現金” で直接貰えたのは「御合力金(ごこうりょくきん)」と「五菜銀(ごさいぎん)」といわれたもので、前者が “衣装代や化粧代” として小判で、後者が “味噌代や塩代” として銀で支払われました。
これら “米” や “現金” 以外として、明かりや暖、調理や風呂炊きなどで使用する燃料類(薪・炭・油・湯の木)が “現物” で支給されました。
当然のごとくこれら “給与” は階級・役職によって大きく異なり、大奥最上位の〖上臈御年寄〗と最下位の〖御末・御半下〗とでは、今風に言えば一流会社社長とパート主婦の年収差くらいあるのではないでしょうか。
年代などによって違いはあるでしょうが、一応 1800 年頃のデータによれば、〖上臈御年寄〗の年収は「御切米」と「御扶持」あわせて年 121.5 石、「御合力金」と「五菜銀」あわせて年 100 両 300 匁、「薪」年 30 束、「炭」年 20 俵、「湯の木」年 50 束、「油」年 7 升 2 合 …
とされていますが、さすがにこれではピンとこないので、現在の貨幣価値に換算した年収を以下参考程度に記しておきます。
この当時は小判 1 枚(1 両)が 10 万以上もしたそうな…
ちなみに〖御年寄〗と〖表使〗は「町屋敷」も与えられたそうで、それを他人に貸すなどして額面よりも高い収入を得ていたであろうとのこと。
❶ 〖上臈御年寄〗⇨ 約 2700 万円
❷ 〖御年寄〗⇨ 約 1500 万円
❸ 〖御中臈〗⇨ 約 700 万円
❹ 〖表使〗⇨ 約 550 万円
➎ 〖御末・御半下〗⇨ 約 90 万円
「大奥」の秘話・豆知識
無駄遣いの女王 !【和宮】
贅沢三昧に明け暮れていた大奥の高級女中達ですが、ベンツが買えるほどの金額を 1 ヵ月の “タバコ代” に消費していたという【第 14 代将軍】「徳川家茂(いえもち)」の正室「和宮(かずのみや)」はつとに有名。(画像参照)
その額なんと 1260 万円 !
倹約のお触れにより 1/10 程度にまで減額させられたそうですが、それでも現在からは想像もつきません。
美女ばかりを大量解雇 !【徳川吉宗】
TV “暴れん坊将軍” で有名な【第 8 代将軍】「徳川吉宗(よしむね)」(画像参照)ですが、女体の上ではあまり大暴れされなかったようで、逆に選りすぐりの美女ばかりを多数大奥から追放しました。
財政再建たる「享保(きょうほう)の改革」の一環としてなされたリストラですが、あえて “選りすぐりの美女” ばかりを解雇したのは、
『それだけの美貌があればどこにでも嫁に行けるだろうし、この先困ることはないであろう』
との考えからだったようです。
門限破って人生急落 !【絵島(江島)】
【7 代将軍】「徳川家継(いえつぐ)」の母に仕えていた大奥〖御年寄〗の「絵島(えじま)」。
公務で城外に出た際、懇意の呉服商に誘われるがまま芝居を見てしまったのが運の尽き。
芝居の後、歌舞伎役者「生島新五郎(いくしましんごろう)」らを宴会に招いたが、つい夢中になり大奥の門限時刻をオーバー。
問題が膨れ上がり、評定所(ひょうじょうしょ)より厳しい裁決が下された「絵島」はその後 27 年間、山深い長野の地で牢屋のごとき部屋に幽閉され、酒も菓子も禁じられる惨めな生活を送ることとなりました。(画像参照)
これは有名な「絵島生島事件」と呼ばれるもので、関係者も多数処罰されたそうですが、一説には、緩み切った大奥の綱紀粛正を図った “見せしめ” だったのでは、とも。
晩年の「絵島」は地元藩主の嘆願により赦免が認められ、城で働く女性に “しつけ” の指導などもしたとか。
1741年、風邪が元で死去。(享年 61 歳)
幽閉地にある「蓮華寺」に設けられた墓所は大正時代に入るまで誰にも発見されることなく放置されていたそうです。
【動画でさらに詳しく/絵島生島事件】
〖【歴史解説】大奥最大のスキャンダル「絵島生島事件」の真相【江戸時代】〗
⦅秘話⦆コレで夜もぐっすり⁉ 大奥女中の必須アイテム「張形」
たまりゆく情欲のはけ口を身近な “オンナ” に求めさせぬためであろう、大奥では女中同士で入浴することや同じ布団で寝ることは固く禁じられていました。
そうしたこともあってか、べっ甲で作られた「張形(はりがた)」は大奥女中達の大人気グッズでもあったようです。
「ハリガタ ?? なにそれ ??」って方は Wikipedia でどうぞ。
現物写真もあり。
さらに詳しく激しくお知りになりたい奥様やお姉様は以下にて。
城外での休暇はもらえた ?
【御目見以上】の奥女中は基本城外での連続休暇(「宿下り(やどさがり)」)は不可で、重病を患ったり親が他界したりなどよほどの場合にのみ認められたそうです。
反面、【御目見以下】であれば 3 年に 1 回のみ「宿下り」が認められたとのこと。(勤続 3 年で 6 日・勤続 6 年で 12 日・勤続 9 年以上で 16 日)
その他大勢の【部屋方】は毎年春と秋の 2 回「宿下り」ができたそうです。
毒殺 !? 早死にが多かった【将軍】の子供たち
歴代【将軍】の子供たちには歳若くして病死した者も多く、『女性達の権力争いで毒殺されたのでは ??』などともよく言われますが、実際はこの当時化粧に使われていた白粉(おしろい)が主な原因であろうとされています。
当時の白粉には有毒物質の「鉛」が多く含まれていたため、授乳時などにそれを舐めた乳幼児が脳膜炎で死亡するケースは将軍の子に限らず多々あったようです。
これもある意味 “毒殺” と言えば “毒殺” ですが…
ちなみに “鉛入りの白粉” は、わが国では 1935 年に禁止されました。
【最後に】 歴代将軍で最もエロかったのはコイツだ!
大奥の採用条件や就職難易度は、その時々の社会情勢や財政事情によって多少なりとも変動があったようですが、基本【御目見以上】の役職を GET するためには父親が御目見以上たる武士 “旗本” であることが必要でした。
【御目見以下】や【部屋方】としてであれば、御目見以下の武士 “御家人” や町人の娘などでも奉公可能でしたが、それでもある程度のコネは必要だったようです。
【御目見以下】や【部屋方】の大半は、大奥内での出世云々よりも、自己の将来のためその経歴に “大奥勤務経験者” という “箔” をつけるのが目的だったとされています。
結婚も退職も比較的自由だったこれら “下っ端” に対し〖御目見以上〗の束縛は厳しく、一人の【将軍】への「一生奉公」を誓わされ、恋愛や結婚なども生涯を通してできませんでした。
贅沢三昧で衣食住には何ら不自由しなかった高級奥女中たちも、そのほとんどがオトコにだけは縁がなく、「張形」にまで手を出してしまうほど欲求不満が募ったのも無理はありません。(中には城外や城内でこっそり逢瀬を繰り返していた女中もいたかと思われますが…)
そう考えると、“世継ぎ” のことしか頭にない【カタブツ将軍】より、年齢問わず誰でも OK な、“女好き & 遊び好き” の【エロ将軍】であった方が彼女たちからすればありがたかったのではないでしょうか。
ちなみに大奥制度を最も “活用” した【エロ将軍】は第 11 代の「徳川家斉(いえなり)」(上画像参照)で、【御台所】と【側室】あわせて計 17 人 ! & GET した子供は 53 人 !
真の ⇗暴れん棒将軍⇗ は紛れもなく彼です。
書籍・マンガ・動画で楽しむ「大奥」モノ (一部抜粋)
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