【はじめに】
「タコ部屋」なる言葉、若い方は大半の方が初めて聞くのではないでしょうか。
反面、ある程度ご高齢の方はみなさんご存知かと思われます。
知らない方は “タコ” などと聞けば、何やら楽しげな部屋かと思うかもしれませんがけっしてそうではありません。
今回は、戦前から戦後にいたるまで多数の死者を出した日本の暗部、「陸のタコ部屋」と「海のタコ部屋」をご紹介いたしましょう。
タコ部屋とは
“タコ部屋” といえば、一般的には「陸のタコ部屋」のことをいいいます。
太平洋戦争が終結し、労働基準法第 5 条「強制労働の禁止」が制定されるまでは日本各地のいたるところに人権無視の過酷な労働現場が存在していました。
中でも北海道の鉱山や各種開拓現場などで行われていた「タコ部屋労働」といわれたものは最も悪名高きものといえましょう。
今や多くの人が暮らす北海道ですが、その歴史は意外に新しく、都市部を繋ぐ道路網や鉄道網、その他発電用のダムなど生活基盤たるものが整備されたのは明治以降になってからで、その主たる労働力にあてがわれたのが集治監(現在の刑務所)の囚人や民間の強制労働者達だったのです。
北海道開拓のために当初組織された「屯田兵」だけではまったく追いつかず、政府によりまず “利用” されたのが安上がりに酷使できる囚人達でした。
が、いくら囚人とはいえ、死者が続出する人権無視の過酷な労働が社会問題となり、明治政府は 1800 年代後半にやむなくこれを廃止させました。
とはいえ、北海道の開拓に人手が必要なことにかわりはありません。
そこでこれまでの囚人にとってかわり、同様の厳しい条件下で酷使されたのが、日本各地から半ば強制的に寄せ集められた “タコ” と呼ばれた民間の労働者でした。
主に東京や大阪など都心部の貧困層や、借金漬けで首が回らなくなった人達がその大半を占め、彼らが現場で寝起きする環境最悪の掘っ建て小屋が、悪名高き「タコ部屋」と呼ばれたものです。(写真参照:Wikipedia より)
ちなみに、この “タコ” なる語源ですが、諸説入り乱れている上、どれも信頼性に乏しく、いまだ定説はありません。
タコの主な仕事内容
タコの仕事は朝早くからひたすら肉体を酷使する単純労働がほとんどでした。
そもそも “開拓” といわれるものは、何もない不便な地に道路なり鉄道なりを建設して便利にすることなので、タコの労働現場は必然的に厳しい環境が多くを占めました。
十分な休息や食事は与えられず、早朝から深夜までひたすら肉体を酷使する過酷な労働に、監視役の目を盗んで逃走する者も多かったといいます。
とはいえ、逃走に失敗すれば見せしめのリンチによる「半殺し」か「死」が待っており、また、成功してもヒグマに襲われたりなど過酷な自然環境下を生きて逃げ延びるのは至難のワザでした。
作業中でも足元をふらつかせたりすればスコップなどで思いっきり殴られ、死ねばその周辺に埋められるか、もしくは野ざらしにされたといいます。
逃げようが逃げまいが、タコ労働者は常に「死」と隣り合わせの毎日でした。
彼らが殉職した現場には慰霊碑などが多数建立されているものの、今だに怪奇現象だの心霊だのといった話題には事欠きません。
タコ部屋での生活
鉄道や道路の建設など、タコの労働は移動を伴うことが多く、寝起きする “タコ部屋” も建て壊しが容易な簡素なつくりがほとんどでした。(写真参照:Wikipedia より)
逃亡の防止もあって窓はほとんどつくられず、僅かな窓にもしっかりと鉄格子がはめられていたそうです。
出入口はほぼ 1 ヶ所のみで、外側から施錠されるうえ親方や棒頭(ぼうがしら)といった管理側の人間が 24 時間体制で常に目を光らせていました。
“タコ” の食事は基本立ったままだそうですが、模範的なタコには座って食べてもよい “特別待遇” を与え管理する手段として使っていたそうです。
海のタコ部屋「蟹工船(かにこうせん)」
別名「海のタコ部屋」といえば主に「蟹工船」のことをいい、昭和 40 年代まで北洋漁業で使用された “蟹の缶詰め加工が可能な大型の船” がそれです。
夏場の漁期になるとカムチャッカ半島沖まで出向き、搭載した小型の船を出してタラバ蟹をとっては母船で加工する、といったことを 3 ヶ月~半年間ほどの期間に繰り返し行うといったものでした。
特定の主人公を設けず、“労働者 vs 使用者” といった流れで話が進む珍しい手法の小説としても有名です。
蟹工船の労働環境
睡眠すらろくにとれない過酷な労働に加え、不衛生で逃げ場のない船内に長期間監禁される辛さはハンパなく、途中で精神に異常をきたす者も続出したとされています。
昭和初期には蟹工船「エトロフ丸」で 1 日 20 時間もの労働が強制され十数人もの死者を出しました。
賃金はタダ同然の安いものからかなりの高額まで証言は様々で、雇い主などにより大きな差があったものと思われます。
「昭和の脱獄王」で有名な「白鳥由栄」も収監される以前に乗り込んでいた時期があったようですが、かなりの高賃金だったことを後に述べています。
賃金はどうあれ、蟹工船は「工場」でも「航船」でもないことから労働法や航海法の適用外となる、いわばグレーゾーンに属し、雇う側の非人道的な扱いが政府黙認のもとまかり通ることとなりました。
【オススメ映画】
映画「蟹工船」は VOD(動画配信サービス)の【U-NEXT】にて現状(2021 年 8 月現在)タダでご覧になれます。
以下記事参照。
現代風にアレンジされており好みは人それぞれでしょうが…
画像:「U-NEXT」より
恐るべし「人柱(ひとばしら)」の発見
トンネル、ダム、発電所など、タコ労働者の命と引き換えに完成した北海道の建築物は多々ありますが、中でも最も有名なものは石北本線にある「常紋トンネル」(上地図 〇 付近)ではないでしょうか。
1912 年着工の、かなり山深い難所に掘られたトンネルで、全長約 500㍍ 程度にもかかわらず完成までに 3 年もの月日を要し、タコの犠牲者は 100 人を超すともいわれています。
開通後の怪奇現象などでも有名なトンネルで、タコ部屋労働の実態をこれで知った方も多いのではないでしょうか。
1959 年には旧国鉄が現場近くに慰霊のための地蔵尊を設けましたが、これはトンネル内で列車が急停止するなど気味の悪い現象が相次いだことによるものです。
スコップでの撲殺、動けなくなった者の生き埋め、裸で縛り上げ全身を蚊に食わせる、などタコ労働者への非人道的な扱いは多数伝えられており、地蔵尊の裏地からも約 50 体の遺骨が発見されました。
中でも世間を震撼させたのは、噂とされていた「人柱」が現実に証明されたことでしょう。
1970 年の十勝沖地震の後に改修工事が行われた際、トンネル内の奥まった壁の中から頭蓋骨に損傷のある 1 体の人骨が立ったままの状態で発見されました。
他にも多数の遺体が壁の中に埋め込まれたと推測され、第 1 級の怪奇スポットとしても揺るぎない地位を得ています。
霊とやらがもし存在するならば、歳若くして虫けらのように死んでいった彼らの怨念たるや察するに余りあります。
気軽にどこへでも行けて便利になった世の中ですが、こうした犠牲のもとにあるということもけっして忘れてはいけません。
心より御冥福をお祈りいたします。
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