【はじめに】
年齢を重ね、デジタル社会が進めば進むほどに、不便ながらも人間らしく生きていた、アナログ時代、昭和時代、少年時代、にまた戻りたいと思ってしまうのはワタクシだけでしょうか。
利便性やスピードばかりが優先されるようになってしまった無味乾燥な現代社会・ロボット社会に辟易しつつ、ふと思い出し、無性に見たくなったのが、子供時分によく見た人間味あふれるテレビドラマ【裸の大将放浪記】。
YouTube で検索したら、第1話(末尾の【おまけ動画】に貼ってます)を含め、何本かがしっかりと UP されておりました。
『野に咲くぅ~♪ 花のよ~おにぃ~♪』
…の主題歌で有名な、《芦屋雁之助(あしやがんのすけ)》氏主演のアレです。
ある世代以上の方ならほぼ皆さんご存じでしょうが、ピンとこない方や、久々に歌を聞いてみたくなった方は以下動画にてどうぞ。
〖 野に咲く花のように – ダ・カーポ(Da Capo)〗
…で、つい昔に戻ったかのようなほっこりした気分で3本も立て続けに見てしまったわけなんですが、よくよく考えると、これまで自分の中に根付いていた《裸の大将=山下清(やましたきよし)》像ってのは、テレビの中で演じる《芦屋雁之助》氏の姿そのままであって、“ホンモノ” の《山下清》氏のことをあまりよく知らなかったことに今さらながらに気付きました。
同じような方も結構多いのでは?
⦅裸同然の姿でデカいリュックを背負ってる?⦆
⦅おむすびが大好きで赤い傘を差して線路を歩く?⦆
⦅旅先でお世話になったお礼に貼り絵を残す?⦆
テレビドラマでイメージづいたこれらの “放浪姿” は果たしてどこまでが本当なのか…
てなわけで、この機会に “日本のゴッホ” たる天才放浪画家《山下清》氏の真の姿や人生をあらためて探ってみることにしたんだな。
『ひとりで海にいける花びらはいいな』
【 裸の大将《山下清》】 ドラマとはちょっと違ったその人物像
【作品一例】
山下清作品管理事務所蔵
天才放浪画家《山下清》とは ~ 基本編 ~
《山下清》とは、軽度の知的障害・言語障害を持った、昭和初期~中期(太平洋戦争前~戦後)にかけて活躍した日本の天才画家で、「ちぎり絵」・「貼り絵」・「ペン画」・「水彩画」・「油彩画」など多くの作品を手掛けましたが、中でも彼の代名詞とも言えようものが「ちぎり絵」と「貼り絵」。
「貼り絵」とは、
[色のついた紙を細かく切って、台紙に貼って、一枚の絵に仕上げる]
といったもので、手で色紙をちぎって貼る「ちぎり絵」の進化版です。
ハサミなどの刃物が危険だったことから、最初は安全かつ単純な「ちぎり絵」からのスタートでしたが、のめり込むうち、やがて複雑繊細な「貼り絵」へと発展させ、さらには立体感を出すため「こより」を用いるなど、彼独自の技法をも編み出しました。
「ちぎり絵」や「貼り絵」といったもので名を成した画家は、古今東西《山下清》氏以外存在しないらしく、誰とも比較できぬ彼だけの分野だとされています。
別名「天才放浪画家」「日本のゴッホ」「裸の大将」などとも呼ばれており、これらでご存じの方も多いのではないでしょうか。
ちなみに、上貼り絵の「友だち」は、彼が十代半ば頃に手掛けた作品ですが、戦争前の物資制限で “色紙” が手に入りにくかったことから、“使用済み切手” を使って仕上げられています。
全体像からは分かりにくいですが、アップで見たら一目瞭然。
切手であれ紙であれ、彼の「ちぎり絵」や「貼り絵」の色とりどりの “色” は、すべて元の素材の色で、貼り付けた後に絵の具などで着色するなどは一切していないんだそうです。
失敗すれば一発アウトの「ペン画」などは、まずは “下描き” をするのが基本ですが、彼は下描きなしにミスることなく仕上げたと言われています。
彼の頭の中では、作品を作る前からすでに完成後の “絵” が鮮明にできあがっていたんでしょうね。
なお、テレビドラマ「裸の大将放浪記」などから、
⦅上半身裸 or ランニング姿で日本各地を放浪し、お世話になったお礼に貼り絵を残す⦆
…てな印象が強いかと思われますが、実際の《山下清》氏はなかなかにオシャレだったらしく、放浪中のほとんどは、“夏場=浴衣姿 / 冬場=着物姿” だったそうです。
また、放浪中に作品を手掛けた事実もほとんどなく、定期的に実家なり八幡学園(やわたがくえん → 後述)なりに戻り、頭に焼き付けた風景を呼び覚ましながら作品作りに没頭する、てのが彼通常の制作スタイルでした。
完成後の作品と実際の風景との比較などから、“驚異的な映像記憶力” の持ち主としても有名です。
おそらくは “職業画家” になってからのことでしょうが、甥の《山下浩》氏によれば、作品の制作は毎日規則正しく 朝 10 時頃から開始し、食事(12 時)や休憩(15 時)も決まった時間に必ずとり、たとえ完成間際であっても『あともう少しだけがんばるんだな』などと言うことはなく、夕刻(17 時頃)にはスパッと作業を切り上げていたそうです。
わが職場仲間の顔がふと思い出されます。
『西洋のルンペンはコーヒーか紅茶をのませてもらえるのかな』
運命を変えた「ちぎり絵」との出会い
山下清作品管理事務所蔵
『ぼくは子供のときから頭が弱いから いい景色でもさびしい景色でも ぼやっとみてるだけだな』
生まれた翌年には関東大震災で家を焼け出され、3 歳の時には風邪の悪化から数か月間生死をさまよい、あげく、その後遺症で言語障害と知的障害を患うという不遇の幼少期を過ごした《山下清》氏。
本来は心優しい穏やかな性格ながらも、イジメの仕返しに傷害事件を起こすなど、次第に粗暴な態度が目立つようになり、12 歳の時(昭和 9 年)には母親によって千葉県にある知的障害児施設「八幡学園(やわたがくえん)」に預けられました。
が、そこで教育の一環として取り入れられていた「ちぎり絵」(上画像参照)との運命的な出合いを果たすことにより、彼の将来は大きく決定づけられることになったのです。
その才能は、学園の顧問医をしていた《式場隆三郎(しきばりゅうざぶろう)》氏によって見出され、開花され、16 歳の時(昭和 13 年)には初の個展が東京で開催されるまでに至りました。
また、その直後に行われた大阪の展覧会では、著名な洋画家《梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)》氏により、『《ゴッホ》や《アンリ・ルソー》のレベル』などとも絶賛されました。
《式場隆三郎》は、文芸や芸術創造活動と人の精神的な問題とのかかわりに関心を持ち、裸の大将こと《山下清》の才能に注目し、その活動を物心両面から支え、彼を世間に広く紹介したことは障害児教育に多大な影響を及ぼした。
Wikipedia より一部抜粋
そんなこんなで、《山下清》氏の学園生活はこれまでにない華々しく充実したものに変わって然るべきでしたが、当のご本人は作品だの名声だのはどこ吹く風。
好き勝手、自由気ままに過ごす毎日の方が遥かに大切でした。
で、日米開戦を目前に控えた昭和 15 年(清 18 歳)、突如『イヤになったから』と学園を脱走。
以後、約 15 年にも及ぶ彼の行ったり来たりの “放浪生活” がここに幕を開けたのでした。
“単調で束縛だらけの学園生活” がイヤになったのと、迫り来る 20 歳の「徴兵検査」から逃れたかったのがどうやら主な理由のようです。
清の日記には、
『もうじき兵隊検査があるので もし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ 戦地へ行ってこわい思いをしたり 敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました』
と書かれている。書籍【裸の大将遺作 東海道五十三次】より抜粋
『一ぺんだけど おまわりにぼくがどろぼうとまちがえられて 二晩ろう屋にとめられたことがある 災難というんだな』
《山下清》氏の実際の放浪スタイル
『おまわりによびとめられて どっかいい景色のとこはありませんかときくと 大てい そんなところはここにはない 早くほかの町へいけといわれたな』
甥の《山下 浩》氏によれば、《山下 清》氏にとっての “放浪” は、あくまで現実逃避をしながら “ぼやっと景色を眺めている” だけが目的だったらしく、“作品作り” のことなどはまったく頭になかったんだそうです。
スケッチブックなどの画材道具も放浪時は一切持ち歩いてなかったそうで、デカいリュックの主な中身は、「着替え」・「手ぬぐい」・「“ごはんをもらった時に使う” 茶碗2個と箸」・「“野良犬に追いかけられた時にぶつける” 石ころ5個」だったとか。
絵は、定期的に実家なり「八幡学園」なりに帰った時に、印象に残った風景等を思い出しながら記憶のみで描きました。
ちなみに、暑い時期には北に向け、寒い時期には南に向け、本能の赴くがままに放浪していたんだそうです。
旅から戻っての貼り絵制作も、自発的にではなく、学園スタッフなど周囲に促されて(のせられて?)からしかしようとしなかったそうです。
また、“画家が被るもの” だとして、いつの頃からか「ベレー帽」を愛用するようになったとか。
『あっちこっちでご飯だのお金だのもらって歩いたな 町のひとはわりかし乞食にしんせつだったな』
また、以上のごとく制作場所がほぼ限定されていたことから、《山下清》氏の正規の作品はそのほとんどが一定の場所にて発見・保管されており、日本各地のあちらこちらで出現するものは「贋作(がんさく=ニセモノ)」の可能性が高いとされ、実際それらしきものも多数出回っているそうです。
他サイト様の情報によれば、一般に大好きだと思われている「おむすび」は、ただ貰うことが多かっただけで、本当の好物は「寿司」・「すき焼き」・「天ぷら」なんだとか。
また、本人の記述などからも、“線路歩き” は実際にも好んでなさっていたようですが、ドラマなどでトレードマークとされている「赤い傘」に関しては完全なるフィクションとのこと。
なお、【裸の大将放浪記】で “線路歩き” などの撮影によく使われた、静岡県大井川のずっと上流の秘境には日本一怖いと言われている【無想吊橋(むそうつりばし)】なるものがあります。
その恐怖を体感してみたいお方は以下記事にてどうぞ。
『川にそって鉄道線路のあるところは トンネルがたくさんあって 線路を歩きにくいな』
清の日記には、
『ぼくは放浪している時 絵を描くために歩き回っているのではなく きれいな景色やめずらしい物を見るのが好きで歩いている 貼絵は帰ってからゆっくり思い出して描くことができた』
と書かれている。書籍【裸の大将遺作 東海道五十三次】より抜粋
【 裸の大将《山下清》】 その他アレコレ
想定外? 目出た目出たの徴兵検査不合格!
《山下清》氏は、放浪生活初期、千葉県我孫子(あびこ)市の我孫子駅にある売店「弥生軒(やよいけん)」で、約5年?ほどの期間こっそりと住み込みで働いていましたが(“放浪の拠点” でもありますが…)、21 歳の時に学園関係者に居場所がバレ、母にムリヤリ「徴兵検査場」へと “連行” されてしまいました。
『20 歳じゃないからもう大丈夫なんだな』と安心しきっていたようですが、21 歳でも受けてなけりゃ受けなくてはなりません。
が、検査の結果は “知能障害” により当然不合格。
自身では合格すると確信していたようで、脱走するほどまでにビビッていたとこが、彼らしくあり、また面白くもあります。
『昔の大将でもいまの大将でも 頭はいいけど ほんとに苦労するのは兵隊だな』
「弥生軒」とは
「弥生軒」とは、現在千葉県我孫子市にある、立ち食いそば・うどん店、およびその運営企業。
創業は昭和 3 年で、当時は我孫子駅で駅弁を扱っていた。
駅弁屋時代の昭和 17 年から 5 年間、《山下清》氏が勤務したことでも有名。
彼が著名になった後、本人に連絡を取って駅弁の掛紙用に絵を描いてもらうことになったが、春・夏・秋・冬 の 4 種類のうち、最後の「冬」を描く前に彼は他界した。参考:Wikipedia
花火が大好き! 人生最期の言葉も花火! 落札額は○○○○万!
山下清作品管理事務所蔵
《山下清》氏は、作品の題材としたあらゆる風景・風物の中でも取り分け「花火」が大好きだったそうで、人生最期の言葉も、
『今年の花火見物はどこへ行こうかな』
だったとか。(甥《山下浩》氏による)
どこそこで花火大会があると聞いては、その地を目指してこまめに足を運んだようですが、貼り絵にしたほどに超お気に入りだったのが、新潟県長岡市の花火大会。
ちなみに、上写真「長岡の花火」のオークション落札額は、何と 3000 万円!
【参考動画】
〖長岡まつりの起源と長岡花火に込められた想い〗
誰もに追われる超有名人に! やむなく “放浪画家” から “職業画家” へ
《山下清》氏の、誰にも干渉されない自由気ままな放浪生活も、あることをきっかけにメディアで取り上げられ、以降はそれが叶わなくなってしまいました。
“彼の作品を見たアメリカの雑誌記者が彼の行方を捜している” てなことを、日本の新聞社が顔写真付きで日本各地大々的に報道したのです。
ちょうどその時、鹿児島をフラフラしていた彼でしたが、一夜のうちに誰もが知る “超有名人” となってしまった彼にもう “お忍び旅” を続けるなどは不可能。
あっさり発見され、誰もに追い回され、もはやわずかの自由すらも失ってしまった彼が “少しでもマシ” に生きていくためには “放浪画家” から “職業画家” へ転身するよりほかありませんでした。
のち、甥の《山下浩》氏が、おじ《山下清》氏に “絵を描くのが好きかどうか” と訪ねたことがあるそうですが、その返事は、好きでも嫌いでもない、
『仕事だからな』
の一言だったとのこと。
ドクターストップも無視 こっそり描いてた 13 枚
ここは変なにおいのするとこだけど 新幹線の窓ごしにみれば においはしないな だけど新幹線はいい景色だからといって ゆっくり走ってくれないな
《山下清》氏の “遺作” としても有名な、ペン画「東海道五十三次」。
多忙を極め、すっかり “放浪” などできなくなっていた彼に、再び東京から京都までを自分のペースでのんびり “放浪” してもらい、その要所要所にて気に入った風景を描いてもらおうといった、《式場隆三郎》氏(前述)の主導のもとに進められた企画作品です。
とは言え、決められたコースを巡るなど、《山下清》氏にとっては “放浪” とはかけ離れたものだったでしょうが…
制作は、旅先で描いたスケッチを元に、自宅で順番に仕上げていく、といった流れで進められていきましたが、自宅での作業も終盤に差し掛かっていたその時、彼の目に突如異変が発生。
診断結果は「高血圧による眼底出血」で、結果、55 枚中 43 枚目以降はドクターストップとなり、その後もそのまま復活は果たせず、「東海道五十三次」は未完のまま完全終了お蔵入りに。
…となるはずだったのですが、性格がら中途半端で仕事を終えるのは我慢できなかったのでしょう。
《山下清》氏の死後、遺品整理をしていた親族によって、彼のアトリエから何と残り 13 枚の完成画が発見されたのでした。
医師の指示を無視して密かに作業を続けていたらしく、55 枚すべてが出そろった奇跡の作品としてその後世に大きく知れ渡ることとなりました。
(※ タイトルは「東海道 “五十三” 次」ですが、絵は全部で 55 枚描かれました)
【享年 49 歳】 天才画家《山下清》の死因は「脳溢血」
享年 49 歳。
「脳溢血」で倒れたその二日後の昭和 46 年 7 月 12 日、誰もに愛された “裸の大将《山下清》” は、東京都練馬区谷原の自宅で親族一同に見守られながらその短い人生に幕を閉じました。
死の直前、彼はうつろに何度も腕時計ばかりを見ていたそうですが、その理由は今となっては誰にもわかりません。
7 月だし、どこぞの花火大会でも気にしてたんでしょうかね…
あの世に行ったら真っ先に彼と友達になって聞いてみたいと思います。
なお、書籍「山下清遺作 東海道五十三次」では、55 枚の絵の一つ一つに彼ならではの “ひとこと” も添えられており、彼のその時々の心情をもうかがい知ることができてオススメです。(冒頭にてご紹介済)
『死んだことのない人が死んだ人のことがわかるかな』
【参考動画】
〖【1971 年 7 月 12 日】放浪の画家・山下清さん死去 その生涯〗
【その他 参考動画】
「生誕100年 山下清展」放浪の天才画家の生涯辿る 「裸の大将」実は…【あらいーな】
【はじめての美術館】生誕100年 山下清展ー百年目の大回想〜SOMPO美術館〜
テレビドラマ「裸の大将放浪記」とは
元々は 1964 年(昭和 39 年)に、《芦屋雁之助》が旗揚げした「劇団 喜劇座」で、当時座付き作家だった《藤本義一》が、《山下清》と《芦屋雁之助》の風貌が良く似ていることを指摘し、それをもとに《芦屋雁之助》主演の舞台劇「裸の大将放浪記」を書き上げて上演、大ヒットしたことがテレビドラマ化の原点である。
1967 年(昭和 42 年)、京都南座での初演時に激励で訪れた《山下清》は『客席にもボク、舞台にもボク』と喜んでいた。
参考:Wikipedia
(テレビドラマは)日本各地でロケーションを行い、その土地土地の住民がエキストラという形で出演もしている。
時代考証については比較的曖昧で、メインの俳優たちが昭和 30 年 – 昭和 40 年代のいでたちであるのに対し、エキストラである町の人々は現代の服装だったり、また、テレビや冷蔵庫と言った家電製品や自動車も放映当時の最新型が置いてあったりということがあった。清を演じた《芦屋雁之助》は、晩年は糖尿病のため食事制限が必要だったが、演技上おむすびを何度も口にしなくてはならず、苦労した。
さらにドラマのイメージが強かったため、ファンからのおむすびの差し入れも多くあった。
ファンに気を使って、目の前で無理をして食べてみせることもあったという。Wikipedia より一部抜粋
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