【はじめに】
時代が昭和へと移り変わり、日本国中が歴史の大きな転換期を迎えている真っただ中、遠く離れた太平洋上では大正天皇の崩御など知るべくもない 12 人の男達が、明日をも知れぬ命を神に託していました。
操業中にエンジンが故障し、風と波に翻弄されるがまま漂流していた小型マグロ漁船【良栄丸(りょうえいまる)】の乗組員達です。
そして願いも虚しく、神の決断は非情なものとなりました。
1926 年(大正 15 年)12 月 5 日、神奈川県三崎(みさき)漁港を出港した【良栄丸】が辿り着いた先は遥か彼方のアメリカ西海岸であり、乗組員は全員死亡。
船内にはミイラ化や白骨化した船員 9 名の遺体が転がっており、発見された 1927 年(昭和 2 年) 10 月まで、なんと 1 年近くも太平洋の大海原を漂流し続けていたのでした。
船の遭難は沈没などによって詳細不明になることが多いとされますが、【良栄丸】に関しては船体の発見とともに「航海日誌」なども残されていたことから、途中までの大まかな状況は明らかとなっています。
最後の記録は “1927 年 5 月 11 日” なので、その直後には残っていた船員も死亡したであろうと推測されており、その後の約半年間はまさに死体のみを乗せた “幽霊船” としてさまよっていたことになります。
そして、発見後の船内調査からは “食人” 行為の可能性も。
てなわけで、今回は当時の日米を震撼させた【良栄丸】の遭難事故を、その記録をもとにザックリとご紹介いたしましょう。
【良栄丸】遭難事故の概要
1927 年(昭和 2 年) 10 月、アメリカのシアトル沖にて貨物船【マーガレット・ダラー】号により【良栄丸】は発見されました。
1926 年(大正 15 年) 12 月、神奈川県三崎漁港を出港した【良栄丸】は千葉県の銚子沖にてマグロ漁をしていましたが、知らず知らずのうちに大きく東へ流され、さらにはエンジンの一部が故障するといった不運が重なった結果、もはや “漂流” する以外なすすべがなくなったのです。
下の画像は【良栄丸】の発見後、残された「航海日誌」をもとに気象学者の《藤原咲平》博士が作成した漂流想定図です。
点線表示は全員が死亡した以降のものとされ、博士は同時に、
『太平洋は広大なり。漁船でアメリカへ行こうとするのはコロンブスのアメリカ大陸発見よりも困難だと心得るべし』
と注意を促しています。
【参考図書】
〖ミイラを乗せた漁船〗(国立国会図書館 デジタルコレクション)
〖死の船「良榮丸」〗(国立国会図書館 デジタルコレクション)
発見された遺体や記録について
発見された【良栄丸】の船内にはミイラ化した 2 名の遺体、白骨化した 7 名の遺体とあわせ、死の直前まで書き記したと思われる「航海日誌」も残されていたため、出港から約 5 カ月間の様子についてはある程度推測可能となっています。
またその他の記録物として、一枚の板に全 12 名が連名で記した遺書、および、船長個人が身内に宛てた遺書、なども発見されました。
板に記したのは、万一沈没してもどこかに漂着してくれるのではないか、という思いがあったからであろうと言われています。
連名での遺書の日付は食料が完全に途絶えた日の翌日、“1927 年 3 月 6 日” となっており、もはや死が目前に迫ったことを全員が悟ったのでしょう。
尚、行方不明の 3 名の遺体は記録にはないものの、慣習に従い「水葬」にされたのであろう、とみられています。
おそらくは最初に亡くなった 3 名で、他の乗組員にまだ余力が残っていたため弔うことが可能だったかと思われます。
その後は、一人また一人と死人が増え続けるも荼毘に付されることはなく、そのまま船内にて放置されることとなりました。
水葬(すいそう)とは、遺体を海や川や湖に葬る葬儀方法のことを言いますが、現在の日本では刑法 190 条の死体遺棄罪に該当するとされます。
例外として、船舶(日本船籍)の航行中に船内の人間が死亡した場合にのみ、船長の権限で水葬を行うことが可能とされています。(船員法第 15 条及び船員法施行規則第 4 条・第 5 条)
最後の生存者 および “食人” 行為について
日誌によると、最後の生存者は船長の《三鬼 登喜造》と船員の《松本 源之助》の 2 名。
《松本》が記した最後の日誌(1927 年 5 月 11 日)の末尾は、
『船長の小言に毎日泣いている。病気』
でした。
何か続きを書きたかったようにも思えますが、おそらくこれ以降は “書く” といった行為すらままならなくなったのでしょう。
その後の 2 人についてはもはや想像する以外ありません。
噂された “食人” 行為については、日誌等にそのような記録はないため何とも玉虫色といった感じですが、個人的には、なぜ 2 名のみが “ミイラ化” で、残り 7 名は “白骨化” だったのか、てのが大いに気になるとこではあります。
1944 年、北海道の知床岬で起きた「ひかりごけ事件」では、難破した船の船長が実際に仲間の死体を食したとして罰せられています。(死体損壊罪にて懲役 1 年)
取り調べを行った検察官によれば、船長はその味について『いまだ経験したことがないほど美味しかった』と述べたそうです。
ギョッとする方法でギョッする部位も食したようですが、詳しく知りたい方は以下にてどうぞ。
〖ひかりごけ事件〗(Wikipedia)
航海日誌にみる【良栄丸】の軌跡
〔1926 年 12 月 5 日〕
千葉県銚子(ちょうし)沖の漁場を目的地として神奈川県三崎漁港を出港したが、悪天候のため銚子漁港に入港して一時待機。(上画像参照)
〔12 月 7 日〕
未だ悪天候が続いているにもかかわらず目的地へ向け銚子漁港を出港。
その後 10 日頃までは漁に専念し、それなりの成果を上げる。
〔12 月 11 日〕
船が大きく流されていることに気付き、陸と思われる方向に 30 時間船を走らせるも山は見えず、早い流れに乗ってしまったことを悟る。
〔12 月 12 日〕
突然エンジンのクランク部が折れて使用不能に。
風向き等から予備の帆を張ることもできず、流れに任せるしかなくなった。
〔12 月 15 日〕
一同漂流に腹をくくり、魚を干物にするなど今ある食糧を最大限節約すれば 4 カ月程度は持ちそうだと分かった。
〔12 月 16 日〕
午前 7 時と午前 10 時にそれぞれ他船を発見。
旗を振ったり火をくべたりして大騒ぎするも気付いてもらえず両船とも視界から消え去る。
〔12 月 26 日〕
日本に戻ることを諦めアメリカに向かうことを決定。
〔1 月 27 日〕
他船を見かけ、火を信号代わりに合図するも気付かれず。
〔2 月 13 日〕
病気だった船員の一人が 13 日ぶりに全快。
〔3 月 5 日〕
本日の朝食を最後に食料が底をついた。
※ 翌日に全員の連名で板に記した遺書の内容は以下のごとし。
〔3 月 9 日〕
船員 1 名死亡。(残 11 名)
〔3 月 12 日〕
船員 1 名死亡。(残 10 名)
〔3 月 17 日〕
船員 1 名死亡。(残 9 名)
〔3 月 22 日〕
船の近くにオットセイを見つけ、島が近いのではないかと皆で喜ぶ。
〔3 月 27 日〕
船員 2 名死亡。(残 7 名)
〔3 月 29 日〕
船員 2 名死亡。(残 5 名)
〔4 月 6 日〕
船員 1 名死亡。(残 4 名)
〔4 月 14 日〕
船員 1 名死亡。(残 3 名)
〔4 月 19 日〕
船員 1 名死亡。(残 2 名)
〔4 月 26 日〕
壊れていた帆を修理する。
〔4 月 27 日〕
嵐になる。
2 人とも活気なくただ時の来るのを待つのみ。
〔5 月 6 日〕
船長が大病となる。
〔5 月 7 日〕
自身もカッケ病のため食事もとれず小便にも行けない。
〔5 月 8 日〕
2 人とも身動きできない。
〔5 月 11 日〕
風やや強く波高し。
船は南と西にドンドン走っている。
船長の小言に毎日泣いている。
【船長の遺書】
※ 以下船長が家族に宛てた遺書は、若干注釈を入れましたがほぼ原文のままです。
誤字・脱字・方言 などが散見され多少分かりづらい箇所もありますが、死を目前に控えた船長の無念さと、家族への深い愛情がひしひしと伝わってきます。
【カツエ(船長の娘《勝江》) オマエノガッコウノソツギョウシキヲミズニ トッタン(父さん)ハカエレナクナリマシタ ナサケナイ オマエハコレカラカシコクナリテ カウコウ(孝行)モシタリ ハハニタシニナリテヤッテクダサレ タノミマス カシコクタノミマス ハハノイフコトヲキイテクレ トッタン(父さん)】
【キクオ トッタン(父さん)ノイフコトヲキキナサイ オキク(大きく)ナリテモ リョウシハデキマセン カシコクタノミマス ハハノイフコトヨクキキナサレ】
最後に
発見後、必要な調査を終えた【良栄丸】は、遺族の希望もあってそのまま現地アメリカにて焼却処分がなされました。
2 名の葬儀も現地にてとり行われたそうです。
尚、同じ船名 「良栄丸」(第 2 良栄丸)の遭難事故ってのがもう一件 1960 年(昭和 35 年)にも発生しており、乗組員の数も同じく 12 名。
これは、高知県土佐清水市の漁船で、静岡県の沼津港を出港した後、その 9 日後に遭難したとされるものです。
【良栄丸】同様 3 名は行方不明となりましたが、残り 9 名は自力で無人島に泳ぎ着き、数日後には無事救助されたとのこと。
「日航 123 便」など大事故を起こした旅客機などは “縁起が悪い” 等で “永久欠番” となったりしますが、「良栄丸」といった船名も同様に使用しない方がよかったのかもしれませんね。
気になる話のひとつとして、
〖あるアメリカ船が【良栄丸】“かもしれない” 漂流漁船と太平洋上で遭遇し、横付けまでして救助を申し出たものの拒否された〗
といったものがあるそうです。
これがもし【良栄丸】だったとしたら、「航海日誌」の内容とも相容れず謎はさらに増すばかり。
オススメ映画 & 書籍
【オススメ映画】
前述した “食人” 船長の「ひかりごけ事件」(名の由来は事件を題材にした武田泰淳(たいじゅん)氏の短編小説「ひかりごけ」)を映画化したもので、一人二役、三國 連太郎の奇々怪々な名演技は必見 !
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