【はじめに】
日本各地に点在する金山(跡)で最もよく知られているのは、やはり歴史も古く膨大な産出量を誇った新潟県の「佐渡金山」でしょう。
江戸時代には多数の罪人や無宿人などが強制的に連れて行かれ、過酷な労働を強いられたあげく多くの命が失われたことでも有名です。
1989 年の閉山後は各種整備などが進められ、今では新潟県を代表する観光施設の一つへと生まれ変わりました。
2022 年 2 月には「ユネスコ世界遺産」への推薦も閣議決定され、今後ますます注目されることは間違いありません。
(※ 2024 年 7 月、佐渡金銀山は世界文化遺産として見事登録されました)
が、この華々しい「佐渡金山」とは対照的な、一時は産出量日本一を誇りながらも知名度はほぼゼロといった金山(跡)が、南国の山奥にひっそりと存在しています。
今回は、地元の人ですら知らない人も多いという、鹿児島県の「山ヶ野金山(やまがのきんざん)」をご紹介いたしましょう。
年1回開催されるウォーキング大会はかなりの人気を博しているようで、ウォーキング好きの方は特に必見です。
末尾にてご紹介。
「山ヶ野金山」とは
「山ヶ野金山」は厳密に言えば、鹿児島県の霧島市とさつま町のちょうど境界付近に存在した金 & 銀の鉱山です。(上地図参照)
1640 年(江戸時代・3 代将軍 徳川家光 期)に発見されて以降、1965 年の閉山に至るまで 300 年以上にわたり膨大な量の金を産出しました。
史料文献上、一応発見されたのは 1640 年とされていますが、鎌倉時代に採掘していたと推定される坑道跡も確認されており、実際は 1640 年よりもずっと以前に発見されていたであろうと考えられています。
江戸幕府直轄の「佐渡金山」に匹敵する産出量(1751 年 ~ 1829 年には佐渡を抜いて日本一にも)を誇りながらもその管理運営はすべて地元に委ねられ、その結果薩摩藩の財政は大きく潤うこととなりました。
幕府より採掘許可を得たのち、2 万人以上の作業者が集められ 150 ヶ所以上で採掘が開始された「山ヶ野金山」でしたが、なんとその幕府から 1 年も経たずに採掘中止の命令が下されたそうです。
大義名分としての理由は何かしらあったようですが、“あまりの産出量の多さにあせった幕府が薩摩藩の強大化を抑止しようとした” のが主目的であったろうと言われています。
十数年後には再び採掘が認められたそうですが、中止期間中も薩摩藩はこれを無視してせっせと採掘を続けていたそうな。
おそらく採掘した金の一部は幕府のお偉方へ “袖の下” としてジャブジャブ流れていたのでしょう。
『よきにはからえ』
ってやつです。
「山ヶ野金山」の栄枯盛衰(発見から閉山まで)
真偽については疑問視されていますが、文献によれば、「山ヶ野金山」は薩摩藩主の島津光久に金鉱脈の探査を命じられた宮之城領主(島津久通)が、その道中で野宿した際に “夢のお告げ” によって発見したとされています。
発見当初の「山ヶ野金山」は、肉眼でもそれと分かる金鉱石が地表にゴロゴロしていたらしく、このことからも埋蔵量の豊富さが窺えます。
またそれは、鉱夫などの作業者を多く長く住みつかせることともなり、周囲には 40 をも超える町が瞬く間に出来上がりました。
その中心には「金山奉行所」や配下の役所がズラリと並び、多くの “掟” などが定められたそうです。
「遊郭」も設けられていたそうですが、「西国三大遊郭」の一つにも数えられるほど規模の大きいものだったとか。
ただ、豊富な金脈も、長く深く掘り進むにつれてノミと人の手だけでは次第に回収効率が悪くなり、また、それに伴い粉塵などによる健康被害も深刻化していきました。
ロウソクの火を頼りに、丸一日掘っても 30㎝ に届かなかったといいます。
そこで薩摩藩は、外国の先進技術を取り入れるためフランスの鉱山技師を招き、大きく近代化を推し進めることとしました。
その主だったものは以下の通り。
❶ 1867 年、フランス人技師〈コワニエ〉の助言により、水銀を用いた金の回収法や、その他、水力・蒸気機関を導入する
❷ 1877 年、フランス人技師〈ポール・オジェ〉により、竪坑の掘削や輸送用道路の整備などが進められる
❸ 1900 年代、設備の電化とその電力供給のための水力発電所を建設する
しかしながら、それら近代化による恩恵もそう長くは続かず産出量は見る見るうちに減少し、やがて太平洋戦争の激化も重なってやむなく休山に。
戦後は経営主体を変えるなどしながら新たな金脈の発見に努めるも、すべて不発に終わり、とうとう 1965 年(昭和 40 年)には閉山が決定されその長い歴史に幕が降ろされることとなりました。
その後の山ヶ野周辺は、これまでの賑わいからは噓のように過疎化 & 高齢化が進み、「佐渡金山」のように整備されたり観光地化されるようなこともなく、ただただ朽ち果てていくに任されました。
現在の周辺人口は最盛期の 1/100 程度かそれ以下だと言われています。
【参考資料】(PDF/1~4ページ)
復活なるか ! 山ヶ野集落の「里おこし」
2001 年、地元の青壮年を中心に【山ヶ野金山文化財保護活用実行委員会】が発足しました。
埋もれている史跡の確認や景観の保全、史跡を生かした地域づくりをしながら「里おこし」をするのが目的です。
その中心イベントとして 2002 年より現在(2022 年)に至るまで続いているのが「史跡めぐりのウォーキング大会」です。(下【資料 1】参照)
熱心な広報活動や地域住民の協力などが功を奏し、最初は少なかった参加者も年々その数を増やし続けて今では定員すら設けなければならないほどの人気イベントに。
史跡などに興味がおありの方はぜひ一度参加されてみてはいかがでしょうか ?
コロナ禍での制限があったりなど、その時々によって参加条件も変わるようなので、希望される場合はまず霧島市 HP のイベントカレンダーや問い合わせ先(下【資料 2】参照)などからの詳細確認が必須です。
世界に誇る「佐渡金山」も素晴らしいですが、山懐にひっそりと佇む「山ヶ野金山」もまた味わい深くてよろしいかと思いますよ。
【追記】(2024,8,25)
ご参考まで。
【参考動画1】
〖★山ケ野金山遺構 完全版!!薩摩永野金山とコスモスの旅~旅行記Vol.134★ (2022.10.12)〗
【参考動画2】
〖【廃墟・遺跡】裏日本百景 山ヶ野(永野)金山遺構群〗
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