【はじめに】

「ツタンカーメン」に代表される古代エジプトのファラオ(王)など、「ミイラ」といえば外国のものばかりだと思い込んでいる日本人は多いのではないでしょうか。
ところがどっこい、わが日本にも正真正銘 “ヒト” の「ミイラ」なるものがほんの僅かながら存在しています。
東北を中心とした、主に寒い地方のいくつかのお寺や神社に鎮座してらっしゃる約 20 躰の古きお坊様たちがそれです。
そして驚くなかれ、我らが誇るこれら日本僧侶のミイラたち(※ 一部は微妙)は、なんと自分自身の意思によって、数千日にも及ぶ 荒行・苦行 を乗り越えた後そうしたお姿になられたものばかりであり、一般的な外国ミイラのように “死後” に “他人の手” によって “製作” されたものではありません。
決定的なちがいは、ミイラとなるため(ミイラを作るため)に必須とされている “死後直後の防腐処理(水分の除去や臓器類の摘出等)” がわが国のミイラたち(※ 一部は微妙)には施されていない点。

生きているうちから過酷極まりない “減量” だの “運動” だので脂肪や筋肉をとことんまで燃焼させ、最後には骨と皮だけになって自分自身を極限にまでミイラに近付けてから “死” を迎えたのが日本僧侶のミイラたちなのです。
修行の最終段階では、体がプカプカ浮いてしまうため弟子たちの手助けがなければ入浴すらもできなかったとか。
こうしたちがいから、これら日本僧侶のミイラたちは世界各地に見られる “製造ミイラ” や “偶然ミイラ” とは一緒にすべきではないとされ、仏教用語由来の【即身仏(そくしんぶつ)】と呼ばれ信仰上は厳格に区別されています。
なお、内臓や脳がそのまま残されているのは、近年になって行われた「日本ミイラ研究グループ」などの科学的調査によって正式に判明したもの。

旧日本僧侶らが【即身仏(ミイラ)】になろうとしたその目的は、“人々の病気を治してあげたい” や “長引く飢饉を終わらせたい” など細かな点では人それぞれだったようで、また【即身仏(ミイラ)】になれたあとの立ち位置も、[自分自身が仏となって]や[自分自身が身代わりとなって]や[仏(弥勒菩薩⦅みろくぼさつ⦆)を手伝って]など、宗派等により様々だったようですが、基本的には…
『永遠の魂と肉体を得て、末永く平和と安寧を願い世の人々を救済し続けたい』
といった趣旨ではみな同じ。
これら【即身仏】の志願僧は江戸時代に集中したとされますが、やはりそこには何年にもわたる大凶作で餓死者が続出し、日本各地で食人行為すらもなされたという 寛永・享保・天明・天保の “江戸四大飢饉” なるものもその背景としては大いにあったようです。


…が、伝承などから、かなり多くの日本僧侶が 荒行・苦行 を行って【即身仏(ミイラ)】を目指したらしいものの、残念ながら現存しているのはたったの約 20 躰。
なぜなら、そのほとんどが死後に虫に喰われたり腐敗したりで “白骨化=失敗作” となってしまったからです。
逆に言えば、四季があり、温暖かつ湿気の多い日本の気候風土では、いくら脂肪や筋肉を燃焼させようが、ガリガリにやせ衰えようが、腐敗の最大原因たる臓器が摘出されていない以上そうなってしまうのが当然であって、見事ミイラ化に成功した僧侶たちは、超激レアたるまさに選ばれし存在。
それゆえご利益も高しとして人々に崇敬され、日本全国から彼らを参拝しに行く者は後を絶ちません。
“レアグッズ” とも言える【即身仏(真如海上人)】の「衣入り御守り」もさぞかし人気だとか。(下で購入可)

そんな彼らは、果たして生前どういった人物だったのでしょうか。
また、どのような修行や方法でミイラとなりえたのでしょうか。
てなわけで今回は、謎多き日本僧侶のミイラである【即身仏】の有名なものや、彼らが祀られている(or 祀られていた)お寺・神社 等を動画や画像もあわせご紹介。
なんと、仏門に入り、【即身仏(ミイラ)】を目指して修行を始めたイケメン僧侶が、自身の睾丸を切り取ってしつこく付きまとう女に手渡した、などという信じがたい話も。
個人的に一番気になるのは、大正時代に行方不明となったまま、それ以降所在の分からぬミイラですが…
何かしらの情報をお持ちの方がいらっしゃれば、ぜひ「コメント」欄(一番下)からでも教えて下さいませ。

失敗(白骨化)以前に、修行途中で死を迎えた者(荒行での 餓死・病死・事故死・衰弱死 や、挫折での 自死・制裁死 等)や、入定(にゅうじょう=修行の最終段階で、土の中等で 瞑想・読経 しながら死を迎える)しながらも様々な事情(弟子らの失念・場所不明・神仏分離令による仏教弾圧や廃寺・明治以降の新法制定 etc)で掘り出されなかったお坊様も多数いるであろうとされています。
“山籠もり” 中に熊など野生動物の餌食になった者もそれなりにいたのではないでしょうか。
何年にもわたる荒行苦行を乗り越えて晴れて “ミイラ” になれたにもかかわらず、弟子らの “ついうっかり” でそのまま地中深くに忘れられているお坊様がもしいらっしゃるならば、その無念さや怨念はハンパじゃないはず。
その上ら辺では夜中間違いなく…
出ますね。🔥👻🔥

なお、本記事を読まれ、
『よし、俺も【即身仏】になってみんなを救ってやる‼』
と奮起されたとしても、日本の現法ではその過程の多くが違法(自殺教唆罪・自殺幇助罪・墳墓発掘罪・死体損壊罪・墓地埋葬法違反 etc)とされており、協力者は何らかの罪で罰せられることになるのでまずムリでしょう。
目指すなら「即身 “成” 仏(そくしんじょうぶつ)」までをオススメいたします。(⇩)
【参考動画】
〖【即身成仏】生きたまま成仏する。即身仏と何が違うの?【悟り】〗
- 【即身仏】 荒行苦行で成功者はごく一握り! “脇役(弥勒信仰)” よりも “主役(即身成仏)” を選んだ多くの日本ミイラたち
- 【有名な即身仏 ズラリ 16 選】 怖い? 癒される? 御利益必至! コレぞ激レア日本僧侶のミイラたち!
- №1.【弘智法印(こうちほういん)】 木製ダミーもあり! 現存中日本最古&日本唯一とされる “弥勒信仰” のミイラ
- №2.【弘智法印宥貞(こうちほういんゆうてい)】 なぜ真言宗僧侶のミイラが曹洞宗の寺に⁉ 日本唯一とされる “薬師信仰” のミイラ
- №3.【真如海上人(しんにょかいしょうにん)】 過酷な修行を 70 年も⁉ 保存状態が最も良い日本を代表する最高齢ミイラ
- №4.【鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)】 自身の片目や睾丸を⁉ 過激な自傷行為で有名なイケメンミイラ
- №5.【鉄竜海上人(てつりゅうかいしょうにん)】 新法逃れで死亡年をごまかした⁉ 修行途中に病死しながらも【即身仏】となれた異色のミイラ
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- 【即身仏】の聖地 山形県 湯殿山神社へ行こう!
【即身仏】 荒行苦行で成功者はごく一握り! “脇役(弥勒信仰)” よりも “主役(即身成仏)” を選んだ多くの日本ミイラたち



元祖(初代)【即身仏】は真言宗開祖の空海?

【即身仏】の多くが、密教仏教たる高野山「真言宗(しんごんしゅう)」の開祖《空海(くうかい)= 弘法大師》の教えに従ったものだそうで、信仰上 “元祖【即身仏】” とされているのも彼。
ゆえに【即身仏】を語る上では《空海》は切っても切り離せない存在であり、てことで、彼の人生なり思想なりがざっくりわかる動画(参考動画1)もすぐ下に貼り付けておきました。
(※《空海》が祀られているとされている高野山「奥之院」の最奥、「弘法大師御廟」では “今現在も生きている” として僧侶たちが毎日欠かさず食事を運んでいるそうですが、通説では火葬されたとされているそうです)

日本ミイラの定番! “即身成仏思想”(真言宗)に基づく【即身仏】とは★


主に即身成仏(そくしんじょうぶつ)思想(仏教の修行者が「真言密教」の実践を通じ、今生のうちに成仏を達成すること)を基底とする真言宗湯殿山系寺院における僧侶のミイラを【即身仏】と呼称するが、それ以外の思想的背景にもとづく僧侶・行者のミイラも広く一般的にこう呼ばれている。
「弥勒信仰(みろくしんこう)」(詳細後述)のように、“「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の到来を長期間待ってからそのお手伝いをする” のではなく、
⦅厳しい修行を経ることによって自分自身がすぐさま仏となって実行する⦆
としたのが真言宗系のミイラであり、その肉体は現身のまま即座に仏になるため【即身仏】と呼ばれる。参考:Wikipedia
【参考動画1】 ※《空海》の 人生・思想 がよくわかる
〖空海物語(即身成仏の真実)〗
【参考動画2】 ※「奥の院」参道の厳かな早朝風景は必見!
〖神回※もし逃したら二度とありません[Koyasan, Japan]見るだけで幸せなことが次々と起こります【高野山奥の院生身供】〗
「弥勒菩薩」を 56 億 7 千万年ひたすら待つ! 日本にたった1躰しか現存せぬ “弥勒信仰” に基づく【即身仏】とは★

「弥勒信仰(みろくしんこう)」とは、仏教とともに日本に伝来(538 年)した日本仏教の元祖的な信仰で、その信仰対象たる「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」とは、釈迦に次いで仏となることが約束された、いわばナンバー2的存在の未来の仏。
釈迦が滅んだ後 56 億 7 千万年後に地上に現れて人々を救済するとされている。
「弥勒信仰」では、
⦅僧は生死の境を超え、「弥勒菩薩」到来の時まで衆生救済を目的として永遠の瞑想に入る⦆
とされており、これは
[座禅によって精神を統一し、生身ではたどり着けない 56 億 7000 万年後の「弥勒菩薩」の到来を、そのお手伝いをするために【即身仏(ミイラ)】となって待つ]
とした考えで、すなわち信仰上はこのミイラは “僧侶の死体” ではなく、“生きながら瞑想している状態=「入定(にゅうじょう)」” と解釈される。
このような思想に基づくミイラの実例が、「弥勒の下生を待つ」と言い残し「入定」した、現存中日本最古とされる《弘智法印(こうちほういん / 下 №1)》で、すなわち「弥勒信仰」によるミイラ=「入定ミイラ」と呼ぶべきものはこの《弘智法印》ただ1躰のみ(後述)であることから、他の【即身仏】を “入定ミイラ” と呼ぶのは正確ではないという指摘もされている。参考:Wikipedia
【即身仏】の修行はココが本場! 山形県 出羽三山のひとつ「湯殿山」★




【参考記事(写真いっぱい「湯殿山」訪問記事)】
[⇩ 記事冒頭部分 ⇩]

荒行苦行で挫折や途中死も続出⁉【即身仏(ミイラ)】になるための過酷な修行(方法)とは

立派な【即身仏(ミイラ)】となるための絶対条件は、死後に白骨化することなく、できるだけ死を迎えた瞬間に近い姿のままで遺体が保たれていること。
皮膚や肉や内臓が腐って溶けたり虫に喰われたりすれば、イコール “白骨化” なのでアウトです。
【即身仏(ミイラ)】を目指す僧侶たちの修行とは、まさに死後そうなってしまう可能性を極限まで下げるための “体づくり” に他ならず、彼らの間ではこれを “体を枯らす作業” とも言ったんだそうです。
その過酷な修行は通常約 3000 日(10 年弱)を要したとされ、減量(五穀断ち・十穀断ち 等)だの運動(山歩き・托鉢 等)だのと段階を踏みながら、腐敗の大きな原因たる脂肪や筋肉をとことんまでそぎ落とさなければなりませんでした。
【即身仏】の修行で寺を出ていく僧には、荒行苦行に耐えられなくなった時の自決用として短刀を持たされるケースも多かったようで、自分自身で命を絶てなかったり逃亡しようとした者は、“人心を裏切った” だの “寺の恥” だので僧侶仲間に葬られる、などということもあったとかなかったとか…
土中入定まで 70 年も修行したりなど極端な例外者(下 №3=《真如海上人》)も中にはいらっしゃったようですが、とりあえず【即身仏(ミイラ)】となるための定番っぽいステップアップ(方法)は以下のごとし。
なお、“五穀” や “十穀” の何たるかは、時代・地域・宗派 や、さらには史料文献などによっても諸説異なるようで、ざっくりと、
[五穀=主だった主食 / 十穀=食べ物のほとんど]
程度の解釈でよさげな感じ。
(参考 ➔〖Wikipedia〗)
【修行(方法)その1】五穀断ち&山籠もり

各種資料などで最も多く掲げられていた “五穀” なるものは[米・大麦・小麦・大豆・小豆]ですが、おそらくは、
「日常的に食べられている “主食” のほとんどを食べてはならない」
といったのがその主旨ではなかろうか。
仏教僧は元から肉類・魚介類は食べないため、ここでかなりのタンパク源・栄養源を失い、空腹にもそれなりには苦しんだでしょうが、この段階ではまだ蕎麦(そば)やトウモロコシなどある程度のものは口にできたので、餓死や栄養不足からの死はそうはなかったのでは、と思われます。
この「五穀断ち」は、通常は寺を離れ、1000 日程度(約3年間)険しい山奥に籠り、毎日山を登ったり行水したりなどの過酷な荒行とのセットで行われました。
真言宗系僧侶を中心に、山形県湯殿山の「仙人沢」なる場所が “お籠り先” のメッカだったようです。⇩


【修行(方法)その2】十穀断ち&木食(もくじき)&托鉢(たくはつ)

「五穀断ち」の “五穀” を[米・大麦・小麦・大豆・小豆]とするならば、そこからさらに追加の五穀、さしずめ[あわ・ひえ・きび・蕎麦・トウモロコシ]などをも断つといったもので、おそらくは、
「日常的に食べられている “食べ物” のほとんどを食べてはならない」
といったのがその主旨ではなかろうか。
つい “穀物類” 以外なら何を食べてもいいのかと思ってしまいますが、そういうワケではないようです。
で、何を食べたかといえば、ほとんど腹の足しにならぬような、木の 皮・実・葉・根 など、主に “木” から採れるもので、そのことからこの修行は「木食行(もくじきぎょう)」とも呼ばれました。
“木(大地?)のエネルギーを全身にいきわたらせる” みたいなスピリチュアル的な意味合いもあったようです。
この段階になれば体も相当にやせこけ、山登りや激しい荒行を続けるのはもはや困難な場合が多かったようで、まだ体が動くようなら家々をまわりながら托鉢(たくはつ=お金や食べ物などの施しをうける➔貧しい人々にそれを配り歩く)を行い、やがて歩くことももままならなくなれば、元いた寺などで朝から晩まで座禅を組み、経を唱えながら一日をひたすら瞑想して過ごしたんだそうです。
この「十穀断ち」も通常 1000 日(約3年間)行われたそうですが、さすがにここまでくれば心身ともに限界点ギリギリだったようで、餓死・自死・制裁死・逃亡 など、多くの修行僧がこれをクリアするまでのどこかの段階で消え去ったようです。
【修行(方法)その3】漆の茶を飲む

「漆」は強烈なアレルギー源としても有名ですが、本来は主に器の表面などを美しく彩るための “塗料” として使われる樹液(下画像参照)であって、人体には “有害物” 以外の何ものでもなく、通常は飲んだり食べたりするものではありません。(漆かぶれ参考記事➔〖Kasane〗)
が、嘔吐・発汗作用・利尿作用などを伴うことから、長きに渡って “体内に残る最後の水分をこれで絞り出せる=腐る可能性が低くなる” と信じられてきたようで、【即身仏】を目指す僧侶たちにとっては避けては通れぬ必須の行為とされていました。
(医学的には “期待するほどの効果はほとんど見込めず、気休め程度にしかならなかったであろう” とのこと)



“有害物” だと言いながら、一応調べたら、なんと青森県で「きりん うるし茶」なるものが売られていてびっくり!
⦅漆の苗を生産する過程で、通常であれば廃棄する発芽しない種を焙煎したお茶です。種には「かぶれ」の成分がないほか、含まれているロウを徹底的に除去し、青森ヒバで燻製することで香り立つ・やさしい味わいに仕上がってます。⦆
とのことで、【即身仏】とは何ら関係ありませんが、記事の詳細が気になる方は〖コチラ〗にて。
一応購入先も貼っておきましょう。(笑)

【修行(方法)その4】ヒ素を摂取

が、【即身仏】を目指した一部僧侶たちは、これを何らかのかたちで摂取していたとみられています。
医学的見地からも、“ミイラ化” の成否は「ヒ素」を摂取していたかどうかによって大きく左右されたであろう、と言われています。
人間の腐敗化は通常真っ先に内臓から進むとされ、内臓内のバクテリアが死後爆発的に増殖するのがその主な原因なんだそうですが、“生きてる人間” には猛毒とされる「ヒ素」も、“腐りゆく人体” にとってはプラスの作用として働くようで、体内のバクテリアの増殖を大きく抑え込む効果が「ヒ素」には認められているそうな。
[❶【即身仏】になれた僧侶の多くは湯殿山にて修行 ➔ ❷ 湯殿山の “御神体” は「ヒ素」を含む温泉の湧き出る岩 ➔ ❸ 修行僧の多くが “御神体” の温泉水を飲んでいた]
といった背景事実からも、成否のカギを握っていたのは「漆の茶」よりもやはりこちらか。

え⁉ 今や撮影禁止の謎多き “湯殿山 御神体” が過去動画に⁉
祟られないかとビビりつつも、おそらくは一見の価値ある貴重な映像かと思われますので、すぐ下に貼り付けておきました。
画質は最悪ですが、チラリと覗いてみたい方は “40 分後~” にワープでどうぞ。
…が、動画そのものも【即身仏】の謎を追った見応えのあるものなので、より一層彼らの世界をお知りになりたくば、最初からじっくりご視聴されることをオススメいたします。⇩
〖ドキュメンタリー 即身仏の科学〗
【修行(方法)その5】土中入定

また、地下水などとの関係から “土中” でなく “地上” の石棺などに入定した者や、最終段階で病死してしまったため、弟子たちにより “死後入定させてもらった” など例外的な形態もいくつかあり。
が、一応基本的な形は、死期が迫ってきた頃合いを見計らって弟子たちに穴を掘ってもらい、そこへ生きているうちに自分自身で入ってひたすら “死” を待つという、おそらくは下画像のようなものだったのでしょう。
ほとんどの場合 “入定穴” は一度入ると座ったまま微動だにできぬ狭いものだったそうで、リタイヤでの自力脱出はもはや不可能。
水や食べ物とも一切オサラバで、かろうじて体内に取り込めるものといえば、地上に通された1本の竹筒から入って来る空気だけ。
あとは座禅を組み、「まだ生きている」ことを知らせる鉦(かね)のみを手に持ち、経を唱えながら “その時” が来るのをただ待つのみです。
鉦の音が途絶えたのを合図に弟子たちによって空気穴が閉じられ、あとは【即身仏(ミイラ)】となるか、ただ白骨化するだけなのかは、運次第。
3年3か月後に弟子たちが掘り起こしてその成否を確かめるのが一般的だったようですが、見事【即身仏(ミイラ)】になれてたら遺言なりにしたがってどこぞへと丁重に祀られました。
が、そのほとんどが白骨化したり掘り出されなかったりで【即身仏】となれなかったのは前述のごとし。
(※ 白骨化していれば、多くは「無縁仏」として再び埋め戻されたとか)

【参考資料 /「美濃のミイラ信仰」】(過酷な修行の具体的一例)

⇩ 一部抜粋 ⇩

【参考動画1】(漫画 /「真如海上人=下 №3」がミイラとなるまで)
〖生きながらミイラになる…究極の修行「即身仏」を漫画にした。〗
(※ 動画内の「お守り」はネットでもご購入できます。ご希望される方は、下の【№3.真如海上人】の記事内より可能です)
【参考動画2】(漫画 / 即身仏修行に挫折した僧侶の末路)
〖【実話】生きたままミイラになる…即身仏に失敗したらどうなるのか?坊主仲間達に…屠られる。〗
【有名な即身仏 ズラリ 16 選】 怖い? 癒される? 御利益必至! コレぞ激レア日本僧侶のミイラたち!


【即身仏】にはよく似た名も多く、特に以下はかなり紛らわしいのでくれぐれもゴチャゴチャになりませぬよう。
❶[弘智法印](下 №1)❷[弘智法印宥貞](下 №2)
❸[鉄門海上人](下 №4)❹[鉄竜海上人](下 №5)
❺[本明海上人](下 №7)❻[円明海上人](下 №10)❼[光明海上人](紹介なし)❽[明海上人](紹介なし)
なお、下 №1~ №15 に貼り付けてある[各種アクセス / MAP]のリンク先はすべて【NAVITIME】です。
また、新旧バラバラ、時系列には従っておりませんので悪しからず。
(※ 古いものからをあえて № で言えば、[1(1363 年 / 室町時代)➔ 12 ➔7➔2➔ 11 ➔8➔ 15 ➔ 10《忠海上人》➔9➔3➔6➔ 10《円明海上人》➔ 13 ➔5➔ 14(1903 年 / 明治時代)]となります)
№1.【弘智法印(こうちほういん)】 木製ダミーもあり! 現存中日本最古&日本唯一とされる “弥勒信仰” のミイラ


【生前の 人物像・略歴 等】(参考:西生寺 公式 HP)
今からおよそ 660 年前の 1363 年 10 月2日、 3千日にも及ぶ即身仏となるための厳しい修行を終えた弘智さまは土中に「御入定」されました。
鎌倉時代に千葉県の農家の次男坊として生まれた弘智さま。
子供時代にお寺に預けられて僧侶となり、そのお寺の住職まで務め、仏教伝導の旅で全国を行脚して各地で寺院を建立、高野山でも修行をしました。
その後「即身仏となる決意」をされて当山西生寺の奥の院にたどり着き修行の地と決め、修行ののち即身仏となられました。
即身仏となられた後も数々の波乱の時代を、その時代の信者の方々に支えられて乗り越え現在に至ります。
唯一、弘智法印即身仏だけが江戸時代からさらに 300 年さかのぼった室町時代前期の即身仏で、今から約 660 年前のものとされています。
日本の現存即身仏の中では最古です。
【安置場所 / 西生寺(さいしょうじ)】⦅新潟県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】



西生寺境内案内板
【参考動画】
〖弘智法印即身仏 西生寺〗
№2.【弘智法印宥貞(こうちほういんゆうてい)】 なぜ真言宗僧侶のミイラが曹洞宗の寺に⁉ 日本唯一とされる “薬師信仰” のミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:福島県県中地方振興局企画商工部 HP / 浅川町役場企画商工課 HP)
弘智法印宥貞は、1591 年(天正 19 年)出雲の国松江に生まれ、1614 年(慶長 19 年)23 歳にして讃岐国衆山松尾寺の宥昌和尚のもとで出家し、宥貞の名をもらい仏門修行の身となりました。
師匠が亡くなると修行の地を求め、一人諸国行脚へと旅立ちます。
出羽三山や北陸を巡り、高野山では、金剛三昧院で真言密教を修学し小僧都の位を得ています。
その後再び修練の地を求め、最後の信仰の地となった小貫東永山観音寺の住職となり、1683 年(天和3年)宥貞 92 歳の時、当時流行していた伝染病から人々を守ろうと、村人に薬師如来の十二大願を説いたあと、決意し石棺に入定し即身仏になったと伝えられています。
全国に即身仏は約 20 体ありますが、弘智法印 宥貞のように疫病治癒祈願という人々のために薬師入定した例は、国内では類がないと言われています。
また、福島県では唯一の即身仏となっており、それに付随する入定石棺、木棺及び宥貞法印行状記は、浅川町指定文化財に指定されています。
2011 年(平成 23 年)の東日本大震災で貫秀寺も被災し、即身仏の安置所も大破してしまいましたが、貫秀寺の住職、小貫即身仏保存会を中心とした浅川町民と町役場の努力により安置所は薬師堂として修復されました。「薬師信仰」とは、特定の宗派にとらわれることなく、仏教が日本に伝えられた最も初期から広く信仰されているもので、「薬師如来」を信仰することで、病気平癒・延命長寿・安産 など様々な願望を叶えてもらうための信仰です。
また現在安置されている貫秀寺は「曹洞宗」のお寺で、真言宗僧侶だった【弘智法印宥貞】とは本来何の関りもありませんが、明治 23 年(1890 年)の大火で近所の安置されていたお寺が焼失したため、“同じ寺のよしみ” とのことからその当時より預かり、現在に至るまで保管しているんだそうです。
なお、先にご紹介した【弘智法印】と、本【弘智法印宥貞】とを同一人物かのように紹介しているサイトや動画などが散見されますが、両者まったくの別人ですのでご混同なきよう。
【安置場所 / 貫秀寺(かんしゅうじ)】⦅福島県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】



【参考動画】
〖【福島県浅川町】ほほえみの即身仏 弘智法印宥貞 ~我身を留めて薬師如来たらん~〗
№3.【真如海上人(しんにょかいしょうにん)】 過酷な修行を 70 年も⁉ 保存状態が最も良い日本を代表する最高齢ミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:瀧水寺大日坊 公式 HP / Wikipedia)
真如海上人は現山形県鶴岡市の農家の出で、純真な性格の持ち主として育ち、幼少の頃より仏教の教に心をひかれる。
青年時代のある日、野良仕事で肥桶をかついでいたところ、通りがかった武士に誤って糞水がかかってしまったことから無礼打ちに遭いそうになり武士を殺してしまったため、大日坊で出家して一世行人に。
弱肉強食の不平等社会を仏国楽土たらしめ衆生を救うことを誓願なされ、 湯殿山大権現を信仰し本寺大日坊を拠点として各方面の教化につとめ、寺を建て慈悲を施して社会福祉につとめられたため、 徳望一世に高く生き仏として多くの人々より尊ばれました。
真如海上人は弘法大師の即身成仏義の教えに倣い、湯殿山の一世行人として二十歳の頃から七十余年の間難行苦行を積み重ね、身と口と心の行いを正して自らを修め、慈悲を施して他人を正し、現世来世を通じて仏国楽土を築かんとの思いから、天明3年(1783 年)、天明の大飢饉の年に九十六歳で土中入定しました。
地下に鉦を鳴らして入定したが、ある老婆が上人様も腹が空いたろうと思い空気孔に饅頭を詰めたため窒息して絶命したとの伝説もあり。
千日後に掘り出されたそのままのお姿で、今日も衆生の為に祈り続けておられます。
【安置場所 / 大日坊(だいにちぼう)】⦅山形県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】



【参考動画1】
〖【湯殿山総本山 大日坊瀧水寺 】即身仏と皇壇の杉 Dainichibo Ryusuiji Temple【鶴岡市】〗
【参考動画2】
〖即身仏真如海上人御衣替法要 鶴岡市・湯殿山総本寺大日坊〗
効果絶大? 早い者勝ち? ネットでも買える「真如海上人」の御衣入り “お守り”

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№4.【鉄門海上人(てつもんかいしょうにん)】 自身の片目や睾丸を⁉ 過激な自傷行為で有名なイケメンミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:Wikipedia)
山形県鶴岡市の注連寺に祀られる鉄門海上人は、元は鶴岡で砂利掘りなどの人足をしていたという。
しかし、武士と喧嘩して殺してしまい、仲間の報復を恐れて注連寺に逃げこみ、同寺の和尚に助けられたことで一世行人を志した。
鉄門海には逸話が多く、加茂から大山へ抜ける山道が険しいことから新道開鑿に尽力し難工事を成功させたという。
また江戸へ出た折、眼病が流行していることから自身の左眼をくりぬき祈願を行ったので、恵眼院という号を贈られた。
また寛政9年(1797 年)ごろ、在家時代になじんだ遊女が修行場まで押しかけたので、自身の局部を切断して女に渡したという。
山を下りた遊女にはそれ以降客が多くついて繁盛したことから、鉄門海の局部は遊女の間を転々とした後、現在は南岳寺に納められていると言われる。
鉄門海は文政 12 年(1829 年)12 月8日、62 歳で注連寺で座禅を組んだまま入定したと伝わる。
しかし鉄門海の弟子で後に海向寺の住職となる清海による『記録帳』では鉄門海は5か年の山籠の後、文政 12 年8月 19 日に下山し海向寺に入り 10 月 18 日から病臥、12 月8日に眠るように往生したことが記述される。
遺体は注連寺に 12 日に着いて翌 13 日に二重の棺に入れられて埋葬されたとあり、伝聞と記録には大きく食い違いがあり。
近年の調査により、左眼は生前に抉り出されたとして間違いないことや、即身仏に陰茎(いんけい➔アレの棒部分)は存在するが陰嚢(いんのう➔アレの玉の袋)は存在せず、血液型も南岳寺に保存される局部と一致することから南岳寺にあるのは鉄門海の陰嚢であることが分かった。
【安置場所 / 注連寺(ちゅうれんじ)】⦅山形県⦆

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【大まかな場所】

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【参考動画】
〖ミシュラン「注連寺」〗
【おすすめマンガ / 鉄門海上人伝(電子書籍 上巻・下巻)】
№5.【鉄竜海上人(てつりゅうかいしょうにん)】 新法逃れで死亡年をごまかした⁉ 修行途中に病死しながらも【即身仏】となれた異色のミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:Wikipedia)
鶴岡市の南岳寺に祀られている鉄竜海上人は、前述の鉄門海上人の孫弟子にあたる。
秋田県仙北郡横堀村に生まれ、天竜海上人の弟子となり、南岳寺の住職を務めた。
湯殿山仙人沢で木食行を行うが病気で中止し下山。
即身仏になれないことを嘆きながら明治 11 年(1878 年)に 62 歳で病没した。
その後色々な人の夢枕に立って早く掘り出してくれと頼むので、墓から取出し注連寺の天井に吊して遺体を乾燥させ即身仏としたと伝わる。
寺伝では明治元年(1868 年)8月8日に亡くなったとされるが、これは同年に出された墳墓発掘禁止令に触れるのを回避するため、禁止令が適用される以前に亡くなったことにしたものとみられる。
南岳寺には鉄竜海の墓と言われる「明治十四年十月廿八日」と刻まれた自然石の碑があるが、これは即身仏の加工を行った日付で、石碑は内臓を埋めた場所だとする説がある。
鉄竜海上人の即身仏の特徴としては、内蔵を取出し、石灰を詰め、傷口を麻糸で縫って塞いでいる点。
このような高度な処理は、医師または動物の死体処理に慣れた者など、専門知識を有する人物の手によるものと考えられている。
体液を抜く目的で埋葬前に海水をかける加工が行われたとも言われる。
【安置場所 / 南岳寺(なんがくじ)】⦅山形県⦆

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【大まかな場所】

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【参考動画】
〖庄内三十三観音 二十九番 [修行山・南岳寺] 4K〗
№6.【妙心法師(みょうしんほうし)】 37 歳で入定⁉ 最新調査を頑として拒み続ける情報錯綜の謎多きミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:Wikipedia)
妙心法師は富士行者として御正体山を開いた僧侶で、現在は岐阜県揖斐郡揖斐川町の天台宗横蔵寺に祀られている。
明治 15 年(1882 年)のとある書物によれば、妙心は安永8年(1779 年)美濃国大野郡神原村の生まれで、信濃善光寺で得度し、生涯蕎麦粉を清水で溶いたもののみを食べたという。
都留郡鹿留村の草庵(そうあん➔草ぶきの粗末な家)で過ごした後、龕(がん➔仏像を収める厨子)を作り、その中で仏の名を唱えながら文政 12 年(1829 年)4月 25 日に死去したとされる。
が、安永8年生まれで文政 12 年没とすると享年 51 歳となり、寺伝での 37 歳没というのは計算が合わない。
ちなみに、寺伝では天明元年(1781 年)の生まれで文化 14 年(1817 年)の入定(死亡)とされている。
妙心法師のミイラは昭和 25 年(1950 年)に名古屋大学医学部によって調査が行われているが、新聞記事と調査参加者とで異なる説(下【参考資料】参照)が示されている。
ミイラは明治7年(1874 年)県庁に納めさせ、甲府病院が保管していたが、明治 23 年(1890 年)2月に生誕地より下付(かふ➔役所から人民に下げ渡すこと)の願が出され、以降は横蔵寺に安置されている。
なお、妙心法師のミイラを保管していた甲府病院は明治 12 年(1879 年)時点で「老僧」のミイラを収蔵していたことが、明治 22 年(1889 年)の『巡回日記』にて記録が残る。
【安置場所 / 横蔵寺(よこくらじ)】⦅岐阜県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】


【参考資料 /「美濃のミイラ信仰」】(37 歳入定説はウソ⁉)

⇩ 一部抜粋 ⇩

【参考動画】
〖【横蔵寺】妙心法師の『即身仏』(ミイラ)は堂内のガラスケースの中に安置されており、間近で拝観することができました。〗
№7.【本明海上人(ほんみょうかいしょうにん)】 本場山形の真言宗系即身仏中最古のミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:不動山本明寺 公式 HP / Wikipedia)
本明海上人は江戸時代の元和9年(1623 年)に、現山形県の藩士の次男として誕生。
寛文元年(1661 年)、藩主が眼病になったことから病気平癒を祈願するため湯殿山に赴き、注連寺と湯殿山神社の両方を訪れ、祈祷と修行を繰りかえし藩主の病を治した伝えられています。
その後、湯殿山での修行をさらに続けて帰還しなかったため、改易(かいえき➔江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし、財産・屋敷を没収するもの)となり、注連寺にて出家し ”本明海” を名乗るようになりました。
その後、本明海上人の霊徳が城下にも聞こえるようになると、藩主も罪を許し、本明海上人の2人の子供達にはそれぞれ 70 石で藩士帰参が認められ、さらに本明寺(戦国時代末期から江戸時代初期の戦火により焼失し、荒廃していた)を再興すると寺領 70 石が寄進されたと記録にあります。
本明海上人は延宝元年(1673 年)に千日の五穀断ち、それを終えるとさらに千日の十穀断ち、さらに5ヶ月間松の木の薄皮を食し、61 歳となった天和3年(1683 年)、『わたしは即身仏になろうと思う。末世の人たちが真心から信心すれば、どんな願いでも遂げさせてやろうぞ』と遺言して本明寺境内にて土中入定した。
遺言により3年3ヵ月後に掘り起こすと即身仏になっており、その後願を掛ける人には必ず御利益があった。
「本明海上人」の【即身仏】は、本場山形の真言宗系の中では最も古いものとされています。なお、明治 13 年の大火で焼失し、現在は遺骨しか残されていないそうですが、一昔前までは新潟県の某寺に《淳海上人》なる【即身仏】が安置されていたらしく、1636 年に入定したとされることから、以前はこちらが “湯殿山系現存即身仏第一号” とされていたようです。
【安置場所 / 本明寺(ほんみょうじ)】⦅山形県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】

【参考動画】
〖【不動山 本明寺】庄内最古の即身仏を安置する寺院〗
№8.【全海法師(ぜんかいほうし)】 直接拝めるのは年1日のみ! 阿賀野川改修と長身怪力で有名な元筏乗りのミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:新潟県鹿瀬町 HP / Wikipedia)
全海上人は、はじめ百姓&阿賀野川の筏乗りをしていましたが、若くして両親と妻子に死別すると出家し、山形県湯殿山の大日坊で十数年にわたり修行します。
その後、郷里に帰ってのちは、阿賀野川の急流難所で多くの船や筏が遭難するのを嘆き、自ら川に出て鎚をふるい、難所を取り除くことに生涯をかけました。
上人は死期を悟ると、自ら即身仏(ミイラ)となって人々を救うことを決意し、木食の苦行に入りました。
そして貞享4年(1687 年)、『わしが死んでも土中に埋葬してはならぬ。このままの姿で即身仏として祀れ』と遺言し、85 歳で入定しました。
三百年経た今日も即身仏は御廟さまと呼ばれて信仰され、7月8日の大祭には御廟さまの姿を拝むため多くの人々が参詣しています。
【安置場所 / 観音寺 菱潟全海堂(かんのんじ ひしがたぜんかいどう)】⦅新潟県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】

【参考動画】
〖【即身仏として今もなおこの地を守る】菱潟全海堂〗
№9.【秀快上人(しゅうかいしょうにん)】 バラバラの白骨が平成2年に組み立てられ復活したミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:妙廣山真珠院 公式 HP / Wikipedia)
享保3(1718)年
新潟県柏崎市にて生まれました。
9歳で出家し、真珠院第 20 世住職の弟子となり、僧名を「泰音秀快」と改め、修業に励みました。
享保18(1733)年
真言宗の長谷寺(奈良)に留学して大学僧に就任するなど精励に努めました。
宝暦6(1756)年
帰郷し、真珠院の第 22 世住職として内外の教化伝導に努めました。
そして 50 歳で深く入定を決意し、五穀を断って菜食で 10 年間の修行を行いました。
安永8(1779)年
檀家さんをはじめとした近隣の人々から浄財を集めて、大工の手によって入定堂を立ててもらいました。
安永9(1780)年
3月1日 当院裏山の石室に入りました。
秀快上人は 20 日間もの間、真言を唱え、鈴(れい)を鳴らし続けました。
3月 21 日 真言宗弘法大師の御命日に、享年も同じ 62 歳で御入定されました。真珠院には天保 13 年(1842 年)に《秀快上人》の遺体の御開帳を本寺に願い出た文書が残っているため、この時点では完全にミイラ化していたと考えられています。
しかし開帳の影響で遺体の損傷が進み、平成2年(1990 年)に聖マリアンナ医科大学の教授らによって調査された時点では白骨化していました。
欠損部分を檜材で補って禅定の姿に復元し、現在は石室内に安置されています。
【安置場所 / 妙廣山 真珠院(みょうこうざん しんじゅいん)】⦅新潟県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】




【参考動画】
〖【即身仏】秀快上人の入定堂・石室とは?〗
№10.【忠海上人(ちゅうかいしょうにん)】/【円明海上人(えんみょうかいしょうにん)】 日本唯一! 一つの寺にツインで祀られているミイラ


【生前の 人物像・略歴 等 / 忠海上人】(参考:庄内観光サイト / Wikipedia)
元禄 10 年(1697 年)、現山形県鶴岡市の庄内藩の武家の家に生まれ、本明海上人の甥にあたるとされる。
50 歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶えるために自ら即身仏になることを決意され、難行苦行の道へ進まれました。
湯殿山仙人沢で一千日の木食行を行った後、宝暦5年(1755 年)2 月 21 日、58 歳で土中入定した。
乾燥が充分でなかったため、ヨモギなどでいぶして燻製にされたことが伝わる。
腹部や胸部に索条痕があり、ミイラ制作時に姿勢を整えるために縛ったものとみられる。
【生前の 人物像・略歴 等 / 円明海上人】(参考:庄内観光サイト / Wikipedia)
明和4年(1767 年)、現山形県庄内町の百姓の家にて生まれ、前述の鉄門海に弟子入りしたのち、海向寺九世住職を経て、50 歳で即身仏になることを決意されました。
湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、師よりも先の文政5年(1822 年)5月8日、55 歳で土中入定し、即身仏となられました。
円明海の一世戒号免許状(ふつう死亡後に発給されるもの)が現存するが、発給日付が「文政五年壬午年四月」という円明海入定の前月であることから入定日の不確実性が指摘されている。
また、近年のミイラ調査によって餓死(通常の入定死はコレ)ではなく病死など他の要因で死亡した可能性も指摘されている。
なお、保存のため柿渋が塗られている。
【安置場所 / 海向寺(かいこうじ)】⦅山形県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】


【参考動画】
〖海向寺(山形県酒田市)〗
№11.【舜義上人(しゅんぎしょうにん)】 87 年後に仏像胎内より世に出された関東唯一のミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:Wikipedia)
舜義は慶長 13 年(1608 年)4月8日に現神奈川県三浦郡に生まれる。
絹笠城主三浦義明の子孫とされ、鎌倉宝戒寺の住職となった。
延宝3年(1675 年)、69 歳で弟子の舜暁が住職をしている妙法寺に隠居し、貞享3年(1686 年)2月 15 日、78 歳で入定した。
弟子が遺骸を石の阿弥陀如来像の胎内に納めたが、入定から 90 年近くも経った安永2年(1773 年)2月 27 日、時の住職、亮順の夢に舜義が現れ「われ再び世に出でて衆生を済度せん」といったので、石像を開けて舜義堂を建て遺骸を祀った。
舜義の遺骸を納めた阿弥陀如来像は現存しているが、内部が狭いため生きたまま人間が入ることはできない。
舜義上人のミイラの頸椎に脱臼があるのは狭い仏像内にむりやり遺骸を入れたためとみられている。
【安置場所 / 妙法寺(みょうほうじ)】⦅茨城県⦆

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【大まかな場所】

【参考画像】


【参考動画】
〖北関東三十六不動尊霊場 妙法寺 即身仏舜義上人〗
№12.【弾誓上人(だんせい⦅or たんぜい⦆しょうにん)】 今や洞窟内に完全封印! 明治元年以降一切非公開の京都の幻的ミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:大原観光保勝会 HP / Wikipedia)
京都府京都市左京区の阿弥陀寺に、日本で最南端かつ最西端の即身仏とされる弾誓上人のミイラがある。
弾誓は尾張国の出身で、9歳で出家後、諸国を行脚して修行した後、当寺を建立した。
そして 62 歳となったその約4年後、1613 年(慶長 18 年)5月 23 日に体質を樹脂化したうえで自ら石棺に入り即身仏になったと伝えられる。
弾誓の遺骸(即身仏)は本堂脇の巌窟内の石棺に安置されているが、明治初年に現在の石棺に収められた後は一切公開されていない。
体の保存状態が良くなかったことが原因と考えられているが、詳しい理由はわかっていない。石棺にはすぐ近くまで行くことができる。
巌窟は弾誓上人が入定される一年前に修行中の僧らに頼んで掘らせたもので、弾誓上人はここに設けた石棺に生きながら入られ、「ミイラ佛」として端座合掌の姿勢で安置されています。安置されている場所は、ほとんど人の訪れぬ京都の山奥の寺の、さらにそこから入っていく暗い岩窟の中とのことで、一人で見に行くにはかなりの勇気が必要そうです。⇩
【参考記事】
〖生きたままミイラになった即身仏を見に行ったら 京都大原 古知谷・阿弥陀寺〗
【安置場所 / 古知谷 阿弥陀寺(こちだに あみだじ)】⦅京都府⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】


【参考動画】
〖【京都おすすめ】圧巻! ぶらり古知谷阿弥陀寺【京のココ見といやす】【京都観光旅行]〗
№13.【金剛院祐観 or 萬蔵(こんごういんゆうかん or まんぞう)】 レンタルされたまま行方不明⁉ 大正時代より所在不明の謎多きミイラ


【生前の 人物像・略歴 等】(参考:しろいし観光ナビ / Wikipedia)
萬蔵は明和4年(1767 年)、現宮城県の熊谷家(平安・鎌倉期に武将を張った名家で代々修験として活動したとされる)に生まれ、山形県羽黒山(湯殿山・月山と並ぶ出羽三山のひとつ)で修行し、大阿闍梨金剛院祐観という僧名を許されたという。
弘化4年(1847 年)6月 27 日、81 歳で即身仏となることを遺言して死去。
息子の祐淳が嘉永4年(1851 年)9月 27 日に墓から掘り出したところ、即身仏となっていた。
祐淳の子孫が萬蔵稲荷神社の宮司として即身仏を祀っていたが、大正 10 年(1921 年)ごろ、騙されて博覧会に持ち出されて行方不明となり、当時のお姿がかろうじて分かるものは、神社に残る2枚の古ぼけた白黒写真のみ。
毎年6月 27 日に執り行われるお祭りではこの写真も公開される。山形県出羽三山(湯殿山・羽黒山・月山)は、元はすべて真言宗の山でしたが、江戸時代初期、羽黒山・月山を統括していた僧侶が徳川将軍家の庇護を受けるために、将軍家に保護されていた比叡山延暦寺にあやかって、両山は天台宗に改宗しました。
その後は改宗に反発した湯殿山のみが真言宗となり、あまりよろしくない雰囲気に。【萬蔵伝説】
萬蔵は、小坂峠(宮城県白石市と福島県国見町とを結ぶ峠)を中心に馬方をして暮らしていましたが、ある時、峠の頂上で旅に疲れた老僧に一食を求められ、老僧を馬に乗せ、我が家にて心からのもてなしをしましたが、翌朝早く老僧は姿を消してしまいました。
萬蔵が昨日の峠にさしかかると馬のいななきが聞こえたので見てみると、昨夜の旅僧が立っており、「私は稲荷神社の化身である。昨夜は殊勝な心掛けであった。」と礼をのべ、馬三頭を与えられました。
萬蔵はその後、この馬を金に代えて、稲荷社を建て、自らも修行し、即身仏になったと伝えられています。
【安置場所(元)/ 萬蔵稲荷神社(まんぞういなりじんじゃ)】⦅宮城県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】

【参考動画】
〖【神社仏閣】100数基の鳥居が続く 萬蔵稲荷神社 宮城県白石市小原馬頭山〗
№14.【仏海上人(ふっかいしょうにん)】 明治 36 年死亡&昭和 36 年発掘! 新法制定によって長期間放置されていた日本最後のミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:大悲山観音寺 公式 HP / Wikipedia)
新潟県村上市の真言宗観音寺に祀られている仏海上人は、文政 11 年(1828 年)、同市にて生まれ、18 歳で湯殿山の注連寺に入門。
その2年後には本明寺に弟子入りし、その後、同寺に元治元年(1864 年)までの 15 年間居住しました。
文久2年(1862 年)より木食行に入り、元治元年(1864 年)から慶応元年(1865 年)までの3年間、湯殿山仙人沢に山籠し、水行・滝壺の座禅など厳寒、酷暑、昼夜の別なく生涯最大の荒行を行いました。
下山の後、村上の観音寺住職や湯殿山の注連寺住職となり、村上・庄内地方の布教に専念。
その間、加持祈祷は言うまでもなく、信徒から供えられる祈祷料や布施などで多くの神社仏閣の再興に努め、貧民救済にもしばしば金銭や穀物を寄付しました。
これらの功績をたたえ、新潟県知事から感謝状・賞状が7回も贈られています。
生前から即身仏になることを強く望んでおり、自ら指示して入定墓を作ったが、土中入定は果たせず、明治 36 年(1903 年)3月、『死後3年後に墓を開くように』との遺言を残して 77 歳で病死。
座禅をしたままの姿で入定墓に葬られました。
明治初年に発布された墳墓発掘禁止令のため、遺言通り3年後に墓を掘り起こすことはできませんでしたが、昭和 36 年(1961 年)7月、ようやく入定墓が村上市教育委員会と日本ミイラ研究グループの手によって発掘調査されました。
仏海上人は、日本最後のミイラ志願者であり、入定墓が発掘調査されたのは日本で初めての事例です。
仏海の遺体は 背中・脚・腕 などにミイラ化が見られる他は大体白骨化していたが、新潟大学で特殊な薬品なども用いて現在の姿に整えられました。
なお仏海は土中入定したとの伝承もあるが、入定墓は呼吸ができる構造ではなく、また、湯灌(ゆかん➔棺に納める前に遺体を湯でふき清めること)の証言もあるため生前入定はまずありえない。
【安置場所 / 大悲山 観音寺(だいひざん かんのんじ)】⦅新潟県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】




【参考動画】
〖【壮絶人生】日本最後の即身仏…他の人々の幸せを願い…自らミイラになる生き様…原田龍二、言葉を失う。〗
№15.【行人様(ぎょうにんさま)】 一日の食事は湯飲み茶碗にそば粉一杯! 火事で最愛の妻と子を亡くした悲しき大男のミイラ

【生前の 人物像・略歴 等】(参考:阿南町公式 HP / sai 南信州ネット)
標高 1000 メートルの新栄山に祀られている行人様の名前は行順。
本名を久保田彦左衛門(くぼた ひこざえもん)といい、今から約 370 年前の生まれで、怪力で、背丈が6尺ほど(約 180cm)の大男でした。
真面目な男でしたので、多くの人に親しまれておりましたが、あるとき、山にまきを取りに行った留守中に家が火事になり、一瞬にして最愛の妻と子どもを失いました。
深い悲しみに暮れ、この世の無常を感じた彦左衛門は神仏の力にすがることを思いつき、修行僧となり、厳しい諸国巡業の旅を 17 年間続けました。
即身仏になるために1日に食べたのは、湯飲み茶碗にそば粉一杯だけ。
それで全国を7回も歴訪しながら寺社仏閣を訪ね歩いて修行を積みました。
新野に帰って来て妻と子どもの 17 回忌を済ませると、瑞光院の裏山にある新栄山を最後の修行の場として、山頂に石室を作り、その中で念仏を唱えて自ら断食死して即身仏(ミイラ)となりました。貞享4年(1687 年)のことでした。
レントゲン検査の結果、年齢は 50 歳前後。
日本に現存するもののうち、唯一の〖禅宗(ぜんしゅう)〗系の即身仏(ミイラ)です。
【安置場所 / 祥雲山 瑞光院(しょううんざん ずいこういん)】⦅長野県⦆

【各種参考サイト】
【大まかな場所】

【参考画像】



【参考動画】 ※ 車中語りがメインです
〖行人様 珍しいミイラを見ることが出来ます 年二回の御開帳 新野町 長野県 久保田彦左衛門 即身仏〗
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【関連映画】(フィクション / 即身仏の実写あり)

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