【はじめに】
みなさんは「アホウドリ」と聞いて真っ先に思い浮かぶものはなんでしょうか ?
デカい ? ノロい ? 可愛い ?
ま、人それぞれだとは思いますが、《野村 長平(のむら ちょうへい)》なる人物を即座に連想された方は、故《吉村 昭(よしむら あきら)》氏の小説【漂流】などをお読みになられた可能性も高く、本記事内容などすでに熟知されてらっしゃるかもしれません。
が、『誰、それ ??』てな方は、ぜひこの機会に知って頂きたい。
大海原を何日も漂ったあげく小さな無人島に漂着し、毎日毎日「アホウドリ」を食べ続け、見事 13 年目に生還を果たした “東洋のロビンソン・クルーソー” こと《野村 長平》なる男のことを…
《野村 長平》 奇跡の生還物語
《野村 長平》を語るにあたって外せないのが「鳥島」や「アホウドリ」などの予備知識。
なので、まずはそれらについてをザックリ記しておきたいと思います。
「鳥島」ってどんな島 ?
その昔、日本の南側の海で遭難した船が漂着する島として定番中の定番だった「鳥島(とりしま)」。
その名のごとく「鳥」=「アホウドリ」の産卵のためだけに存在していたような小さな島で、それ以外にはこれといって何もない殺伐とした無人の火山島です。
「鳥島」は伊豆半島の沖合いより縦にズラズラっと点在する「伊豆諸島」の最果て近くに位置し、一応「東京都」に属してはいるものの、行政サイドのすったもんだで管轄する市区町村が未だ決まっておらず、現状この島を本籍地として指定することはできません。
明治以降のある時期には「アホウドリ」関連の仕事などで僅かばかりの人々が居住していた時期もあったようですが、1902 年の大噴火で島民 125 名が命を落とし、またその後も活発な火山活動が続いていることから現在は再び無人の島となっています。
【参考動画】
〖絶海の孤島 鳥島〗
「アホウドリ」ってどんな鳥 ?
明治以前は毎年数え切れんばかりに飛来していた「アホウドリ」ですが、乱獲に次ぐ乱獲で累計数百万羽が捕殺されたと言われています。
一時は残り数十羽にまで激減しましたが、「特別天然記念物」に指定されるなど法整備や各方面からの手厚い保護によって 2021 年 6 月時点では約 7000 羽程度にまで回復しているそうです。
生態や現状など「アホウドリ」についてのアレコレをさらに詳しくお知りになりたい方は、ぜひともコチラ、
へと飛んで下さい。
当研究所は現在でも気象庁の「旧鳥島気象観測所」の建物(下写真参照)を宿泊所として利用しながら随時調査員を派遣しており、より深い情報が得られるはずです。
旧鳥島気象観測所 Wikipedia より
【山階鳥類研究所 とは】
【山階鳥類研究所】は、故 《山階 芳麿(やましな よしまろ)》博士が昭和 7 年に私費を投じて東京都にある山階家私邸内に建てた鳥類標本館が前身です。昭和 17 年には文部省から財団法人の許可を得て「財団法人 山階鳥類研究所」を設立しました。
戦前、戦後を通じて多くの鳥類研究者を育て数々の業績を上げ、現在は自然誌研究室、保全研究室(鳥類標識センター)、事務局、の構成で活動し、鳥類学の拠点として基礎的な調査・研究を行うとともに、環境省の委託を受けて鳥類標識調査を行っています。公益財団法人 山階鳥類研究所 HP より一部抜粋
「鳥島」にアホほど渡り来ていた「アホウドリ」をアホほど捕殺しまくり絶滅寸前にまで追い込んだアホウな男が、明治から昭和にかけての成金、《玉置半右衛門(たまおきはんえもん)》なる実業家。
「アホウドリ」やこの男のことについては以下記事でも触れておりますので、よろしければ併せてご覧下さい
「黒潮」ってどんな海流 ?
太平洋を西から東にかけて流れる巨大海流「黒潮」のご近所に位置することから、舵の利かなくなった船などがその流れに捕まってたびたび「鳥島」に漂着しました。
【漂流】の著者《吉村》氏によれば、記録に残っているものだけでも 15 件程度はあるそうです。
「黒潮」の幅は約 100㎞ もあるそうで、そのスピードは時速にして約 7.4㎞。
これは自転車の平均速度の約半分の速さにもなります。
漂流ののち「鳥島」に漂着できればまだラッキーな方で、そうでなければ最悪以下記事のような末路が待ち受けています。
漂流後、約 5 カ月で外国船に発見救助された漂着者の一人、《ジョン 万次郎》はのちの人生とも相まって多くの人々に知られる有名人ですが、長期に渡る過酷なサバイバルを生き抜いた “ダークホース” 的存在として名高いのは、やはり《野村 長平》ではないでしょうか。
《野村 長平》 の人物像
江戸時代末期(1700 年代半ば ~ 1800 年代前半)の「土佐藩(現高知県)」の船乗りで、難破漂流時の 20 代前半には早くも船頭を任されていました。
海での行方不明から十年以上もが経過し、故郷の土佐ではすでに死んだものとして扱われていたため、帰郷をなした際には何と自身の「13 回忌」が営まれていた最中だったとか。
帰郷時の年齢は 37 歳で享年は 60 歳。
“野村” の姓は生還後に土佐藩から与えられたものだそうですが、周囲からは “無人島” だの “無人島長平” だのと呼ばれ、今も高知に残る彼の墓石(昭和 2 年に改修)にはその姓名とあわせ「無人嶋」といったサブネームもしっかりと刻まれています。
死んだと思っていた《長平》が 13 回忌中に突如帰ってきた時の驚きの様子は、下に貼り付けた【長平嶋物語(ちょうへいじまものがたり)】の一節からも伺い知れます。
【長平嶋物語】
(国立国会図書館)
“漂流” から “生還” に至るまで
❶ 江戸時代末期の 1785 年 1 月、米を運搬したその帰りに土佐沖にて嵐に遭遇し、舵も帆も壊れ操船不能となり、仲間 3 名とともに 12 日間大海原を漂流したのち伊豆諸島「鳥島」に漂着。
「アホウドリ」は動きが鈍く、素手でも簡単に捕らえることができるため、結果、以後それを主食とせざるを得なくなった。
《長平》たちには「火打石」がなかったため、当初はすべてを “生” で食べるより他なく、「アホウドリ」の不在期間(春から秋にかけて)は生肉を乾燥させ保存しておいたものをかじり飢えをしのぐこととした。
また島内には水源が全くなかったため、卵の殻をたくさん並べ、そこに貯めた雨水を節約しながら飲用した。
“羽” も縫い合わせて衣服や敷物を作るなど有効に活用した。
❷ 漂着後 2 年以内に《長平》以外の 3 名全員が死亡。
ようするに「アホウドリ」=「渡り鳥」だという認識がなかったわけで、当然十分な保存肉など準備してようはずもなく、この現実に直面したことが彼らへの最も手厳しい洗礼となった。
最後の仲間が死んで以降新たな漂着者と合流するまでの 1 年 5 カ月間、《長平》は完全なる単独サバイバルを強いられることとなった。
➌ 1788 年 1 月(《長平》漂着から約 3 年後)、11 名を乗せた大坂の船が新たに漂着し《長平》と合流。
《長平》のサバイバル生活は、彼らと合流後に「火打石」が手に入ったことから大きく改善され、「アホウドリ」の脂肪を燃料として暖を取ったり、また肉を焼いて食べることも可能となった。
❹ 1790 年 1 月(《長平》漂着から約 5 年後)、6 名を乗せた九州(日向)の船がさらに漂着し《長平》らと合流。
が、救助される見込みがないと悟り、全員が乗れるだけの船を作って自力脱出することを決意する。
主な素材として船本体には流木、帆には衣類を使うこととし、その他昔の漂流者が残していった古釘などありとあらゆるものを活用しながら以後コツコツと船づくりに精を出す。
➎ 造船を決意してから約 5 年後の 1797 年 6 月(《長平》漂着から約 12 年後)、ようやく船が完成し、生存者計 14 名は先に亡くなった仲間の遺骨とともに「鳥島」を脱出。
死因は厳しい島内生活での “神経衰弱” や、偏った食生活での “ビタミン不足” であろうと推察されている。
❻ 「鳥島」を出港後、「青ヶ島」を経由して数日後には伊豆諸島の拠点「八丈島」へと辿り着く。
❼ 「八丈島」の代官所に次いで、江戸の勘定奉行所(代官所の上部機関)& 土佐藩藩邸 の各 “調べ” を経たのち、1798 年 1 月、漂流から 13 年目にしてようやく故郷土佐へと凱旋。
小説《吉村 昭》著 【漂流】のご購入に
Amazon での読者レビュー(一部抜粋)
・詳細でリアルな描写。漂流者の食材はほぼアホウドリのみ。人間の生き抜く力を思い知らされる一冊。
・ドラマチックな展開と読みやすい文章が相まって、一気に読めました。
絶海の孤島に流され、徹底的な孤独を長期間強いられた主人公の精神力に心を打たれない人はいないと思います。
・10 年以上も無人島で生き延びたとは。圧倒的なスケールで描かれる長編大作です。度肝を抜かれました。
・人間の知恵や工夫は無限大だなと感じた。
・吉村氏の作品を全部読んだわけではないのだが、最高の作品の一つではないだろうか?
・若い頃に読み、還暦すんで読むと読み味が違う、名作です。
・凄い、凄すぎる。。
・非常に面白かった。夢中になって読んだ。あまりの面白さに、実質2日ぐらいで読み終えてしまった。
・船が漂流する場面や島の生活を恐ろしく感じましたが、主人公の強さと前向きな姿勢に励まされる作品。生還した後の人生も語られていて丁寧な作品だと思いました。
【参考動画】
〖長平ものがたり〗香南ケーブルテレビ
〖記録文学の大家・吉村昭の世界〗
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