【はじめに】
数十人もの血気盛んな女たちがシャモジやホウキを手に大暴れ…
普通の男なら絶対に近付きたくない光景ではないでしょうか。
先日、ある時代劇を見ていたら、古来より江戸時代まで続いていたというブッ飛びな風習【うわなりうち(後妻打ち)】なるものが題材として取り上げられており、思わず口をアングリ見入ってしまいました。
なんでもその昔、旦那を寝取られた正妻や先妻が仲間を募り、妾(めかけ=愛人)や後妻の家へゾロゾロと “うっぷん晴らし” に行くという女だけの奇妙な風習があったらしく、それを【うわなりうち(後妻打ち)】と言ったんだそうです。
そもそもの元凶たる夫や元夫は完全に蚊帳の外だったらしく、いつの時代も “女の敵は女” だということでしょう。
以前何かの番組で、
『この世で最も得体の知れぬ生き物は “オンナ” である』
と、どこぞの偉い先生がおっしゃってましたが、まさにおっしゃる通り。
魑魅魍魎、そんな彼女たちが鬼の形相で暴れ狂う様は名だたる戦国武将たちも震え上がったにちがいありません。
もっとも、時代劇の中では乱闘中のポロリ “パイチラ” などを目当てに多くの男たちが身を乗り出して見物しておりましたが…
てなわけで、今回は平安時代より始まったとされる寝取られ女の復讐奇習、【うわなりうち(後妻打ち)】なるものをご紹介。
【うわなりうち(後妻打ち)】の歴史
観察するほどに不可解、かつ興味深い “オンナ” の世界。
【うわなりうち(後妻打ち)】も時代劇などに取り上げられるだけあってなかなかに強烈な女の風習ですが、そう多くの史料が残されているわけではなく、細かな部分は伝聞や推測によるところも大きいようです。
数少ない文献の中で、【うわなりうち(後妻打ち)】らしき記述が見て取れる最も古いものは、平安時代中期の《藤原行成(ふじわらのゆきなり)》の記した日記、「権記(ごんき)」だとされています。
その内容はというと、1010 年、当時のボスである《藤原道長(ふじわらのみちなが)》に仕えていたある侍女が、夫の愛人宅を約 30 人もの下女を引き連れ襲撃したというもの。
この侍女、よほど喧嘩っ早い性格だったのか、さらにこの 2 年後にも別の愛人宅を襲撃。
この二度目の襲撃については、ボス《藤原道長》がその日記、「御堂関白記(みどうかんぱくき)」において直々に記しており、ここでようやく【宇波成打(うはなりうち)】なる言葉がお目見えすることとなりました。
【うわなりうち(後妻打ち)】は、その後も武家を中心に各々の時代を経て江戸時代まで引き継がれていったようですが、別段 “禁止令” などが出された形跡がないにもかかわらず、なぜか江戸時代の初期(1600 年代前半)には自然消滅したとされています。
その根拠は 1732 年に完成したとされる「昔々物語(むかしむかしものがたり)」なる書物の中のある一節。
ただ、“武家女の風習” としては見られなくなったものの、町民など大衆レベルにおいてはその限りではありませんでした。
ルール化された江戸期前後の【うわなりうち(後妻打ち)】
史料の少なさから、【うわなりうち(後妻打ち)】がどの程度浸透していたのか、日本全国いたる所で行われていたのか、などの細かな点はイマイチはっきりしていません。
ただ、当初は怒りに任せるがまま存分に暴れていた【うわなりうち(後妻打ち)】も、時代とともにやがては “ルール” や “手順” みたいなものが出来上がったようです。
前述の「昔々物語」によれば、江戸時代に入る頃にはもはや “復讐” というより単なる “儀式” のごとくなっており、武器も人命にかかわるような危険なものはご法度とされました。
“ゲームセット” も頃合いを見計らった第三者によって強制終了がかけられたようです。
「昔々物語」に記されているそのルールや手順は以下のごとし。
「昔々物語」に見る【うわなりうち(後妻打ち)】のルールや手順 等
❶ 攻撃側の使者が先方の家に赴き、攻撃日時・人数・武器 などを伝えて宣戦布告。
「離縁後 1 ヶ月以内」とされたのは “この短い期間に新妻をめとるのは婚姻中から浮気していた可能性が極めて高い” ってのがその理由だそうです。
❷ 決行当日、攻撃側は仲間数十人とともに相手宅に押しかけ、台所を中心に家財道具をめちゃくちゃにぶっ壊す。
❸ 頃合いを見計らい、事前にたてられていたストッパー役の第三者が『ささ、もうここらで…』と仲介に乗り出してその場を収める。
…という建前にはなっていたようですが、ひとたび戦闘モードに突入したオナゴが『は~い』と素直に引き上げるなどまずありえないでしょう。
ほとんどの場合やめることなく叩いたり引っかいたりと心満たされるまで暴れ続けたにちがいありません。
あくまで個人的推測ですが…
何はともあれ、そこに元夫の介入する余地はまったくなく、メチャクチャに壊されゆく家財道具たちをただ指をくわえて眺めている他ありませんでした。
何人もの妾を囲い、一方的に妻を離縁できた古き日本の男性社会。
過激な大暴れが風習の一環として黙認されていたのも、そうした社会に生きる女性達のストレス解消のため、ある意味仕方なかったのかもしれません。
暴れるだけ暴れてスッキリした女たちは、おそらく団子やおはぎなどのスウィーツを囲みゴキゲン顔で頬張っていたことでしょう。
このあたりは貴殿のご家庭や職場のオナゴ達もさほど変わらないのではないでしょうか ?
最も有名な【うわなりうち(後妻打ち)】、「亀の前事件」とは
女性の凄まじい嫉妬や逆上に辟易したことのある御仁も多いかと思われますが、鎌倉初期のボス《源頼朝(みなもとのよりとも)》氏に比べればその足元にも及ばないでしょう。
彼のカミさんの恐ろしさはまさに折り紙つきです。
《源頼朝》の妻《北条政子》は《日野富子(ひのとみこ)》と並び日本史における “強い女” の代表格とされていますが、その嫉妬深さもハンパなく、彼女の行った有名な【うわなりうち(後妻打ち)】が「亀の前事件」。
《亀の前》とは《政子》の目を盗んで逢瀬を重ねていた《頼朝》の愛人の名で、それを知った《政子》に鉄槌をくらわされたってのが当事件の概要です。
この時代の【うわなりうち(後妻打ち)】はルールなど存在せず、《亀の前》が囲われていた屋敷は《政子》の命により無残にもぶっ壊されたそうです。
その様子が詳しく記されているのが以下史料で、続きをお読みになりたい方は下の “タイトル” をクリックしてどうぞ。
多数の愛人を持つのがステイタスとされた武家社会において《源頼朝》の妾が少なかったのは、ひとえに妻《北条政子》に恐れをなしてのことだと言われています。
以下は北条一門の繁栄をつづった鎌倉時代の軍記、「吾妻鏡(あづまかがみ)」に見られる《北条政子》の人物像についてを説明した資料から一部抜粋したものです。
ご参考まで。
《北条政子》は伊豆の豪族《北条時政》の長女として生まれた。
父、《時政》が流人である《源頼朝》の監視役になるのだが、《政子》は《頼朝》と恋仲になってしまった。
彼女の恋愛観は一途なもので、《頼朝》のそれとは大きな違いをみせる。
一人の女性に縛られない京風の愛を求める《頼朝》に対して、東国育ちの《政子》は激しく嫉妬し、彼の浮気を責める。
互いに育ってきた文化の違いから生ずる葛藤であった。
《政子》は後に《頼朝》の愛人の家を壊すなど、感情をあらわにする一面もあった。北条政子の生涯 (国立国会図書館デジタルコレクション)より一部抜粋 (一部加工)
「平治の乱(1160 年)」で敗れた《源頼朝》は、同年《平清盛(たいらのきよもり)》によって伊豆へ流され、挙兵するまでの 20 年近くを蛭ヶ小島(ひるがこじま)で過ごし、その間に《北条政子(ほうじょうまさこ)》と結婚したとされています。
しかし、歴史的には「伊豆国に配流」との記録があるのみであり、真偽のほどは不明。
蛭ヶ小島における発掘調査でも、弥生・古墳時代の遺構・遺物のみしか発見されず、平安時代末期の遺構は確認されてないそうです。
【動画で解説】 詳しく知ろう「亀の前事件」
〖【鎌倉殿の13人】北条政子の「後妻打」〗
最後に
奥様や彼女の嫉妬や逆上は恐ろしい限りでしょうが、それ以上に恐ろしいのは嫉妬や逆上すらも一切されなくなること。
こうなりゃ夫婦なんてものはただの同居人に過ぎず、愛する奥様もどこかの輩とゴロニャンの可能性大です。
そして、そうした時期は意外にも早く訪れるのが世の常。
結婚生活に甘い未来を思い描く若き男児たちよ、
心してたもう。
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