【はじめに】
四季折々の美しさを存分に楽しませてくれる人気の観光名所「八甲田山(はっこうださん)」。
それ単体としての “八甲田山” なる山は存在せず、青森県中央部に広がる 18 からなる火山群(北八甲田連峰と南八甲田連峰を併せた八甲田連峰)の総称としてそう呼ばれているもので、レジャーや登山などで一度は訪れたことがある方も多いのではないでしょうか。
が、真冬の、しかも猛吹雪のさなかに足を踏み入れられたことのある方は、さすがにそうはいらっしゃらないはず。
1902 年(明治 35 年)、その極寒地獄の状況下で発生したのが、未曽有の遭難大量凍死事件、【八甲田山雪中行軍遭難事件】と言われているものです。
なんと北海道の旭川では観測史上最低の-40 度をも下回る記録が残されているという、その最悪のタイミングで軍事訓練がなされてしまったことによる悲劇でした。
“雪” や “寒さ” に対してあまりに無知無策だったのもまた大きな要因の一つとされています。
一度に約 200 人もが死亡するといった大事件ながらも、軍に “機密扱い” とされたこともあって長らく公にはされてこなかった当事件ですが、時代が進み、《新田 次郎(にった じろう)》氏の小説【八甲田山 死の彷徨(ほうこう)】や、それを映画化した【八甲田山】の大ヒットなどから、それまで一部の人にしか知られてこなかったこの事件も世に大きく知れ渡ることとなりました。
しかしこの小説 & 映画…
長きに渡って世の人々から史実を忠実に描いた作品だと思われてきましたが、その後の新証言や新資料の発見・公開などによって、今現在ではその多くの点につき事実とは異なることが明らかとなっています。
ですので、上記小説や映画しかご覧になられていない方は『この事件を詳しく知っている』と思ってはいけません。
しかしながら、この事件をあまりよくご存知ない方が、手始めに “大まかな全体像を知る” といった観点からは、まずは読んでほしい、見てほしい、絶対に外せぬ超オススメの作品ではあります。
映画について言えば、俳優陣、リアリティ、スケール、等どれをとってもピカイチ。
てなわけで今回は、日本山岳史上最悪とも言われる大量遭難死亡事件、【八甲田山雪中行軍遭難事件】の背景や全容などを今一度ふり返りつつ、小説【八甲田山 死の彷徨】や映画【八甲田山】等をも併せてご紹介。
とりあえずこの事件は、書類など証拠とされているものの多くに軍や責任者による隠ぺい・ねつ造が疑われており、また生存者の方々の証言も、幻覚を伴う過酷な状況下でさまよっていたことなどから信憑性に欠けるとされるものも散見されたりで、未だ真相定かではありません。
近年では最新の資料や証言に基づいて分析・検証などした書籍もいくつか出版されており、この事件の真相により近づかれてみたい方は是非そちらもオススメいたします。
ちなみに以下書籍はその代表的なもの。
なお、下の【参考動画】は、真冬の八甲田にて悪天候のさなか走る車の中より撮影されたもの。
実際はこんなものではなかったでしょうが、当時の雰囲気が少しはイメージできるのではないでしょうか。
ご参考まで。
【参考動画】
〖【ニッポン旅景色 4K】危険!猛吹雪の八甲田山をドライブしてみた〗
【八甲田山雪中行軍遭難事件】を今一度ふり返る
事件の概要(全体像)
① 後藤 惣助(一般兵)
➁ 倉石 一(大尉)
③ 長谷川 貞三(特務曹長)
④ 伊藤 格明(中尉)
➄ 及川 平助(伍長)
⑥ 後藤 房之助(伍長)※ 銅像の主
⑦ 小原 忠三郎(伍長)
⑧ 山本 徳次郎(一般兵)
⑨ 阿部 卯吉(一般兵)
⑩ 村松 文哉(伍長)
⑪ 阿部 寿松(一般兵)
※ 切断手術なし=➁ ③ ④
1895 年(明治 28 年)、現中国である「清(しん)」との戦争に勝利した日本でしたが、“雪” や “寒さ” に未熟だったことから現地の厳しい自然環境によって多数の犠牲をも伴いました。
ロシアとの戦争をも避けられぬ情勢にあった日本は、日清戦争でのそうした反省を踏まえ、“雪” や “寒さ” に対するありとあらゆることを徹底的に研究し、装備・輸送・凍傷対策など、日露開戦にあたっての必要な手立てを早急に講じなければなりませんでした。
そうした背景の中、軍によって頻繁になされたのが日本国内における冬季寒地訓練でした。
将兵の基本的な訓練(主に雪中行軍)とあわせ、様々な場面を想定した詳しいデータを収集するのがその目的です。
【八甲田山雪中行軍遭難事件】はまさにこの訓練の真っ只中に起こった出来事で、その多数の死者を出したとされるのが、当時青森に駐屯していた「陸軍第八師団 青森歩兵第五連隊」(連隊長以下約 2000 名)に所属するある一団体(大隊長以下約 200 名)。
細かく言えば、訓練参加者計 210 名中、凍死者が 193 名、救助後の死亡者が 6 名で、生存が叶ったのはたったの 11 名のみでした。(上写真参照)
この未曽有の悲劇を生んだ大寒波は、気象庁 HP 内の「歴代最低気温ランキング」(毎日更新)からも明らかで、事件前後に北海道の旭川と帯広で叩き出した1位 & 2位の記録は今現在(2023 年 9 月時点)においても依然破られてはいません。(上画像参照)
生存者 11 名のうち五体満足だった者は 3 名のみ(倉石大尉・伊藤中尉・長谷川特務曹長)で、残す 8 名は重度の凍傷により手足等の切断を余儀なくされました。
“下位” の者ほど悲惨な目にあうのは古今東西組織社会における定番の方程式ですが、ことここにおいても例外ではなかったようです。
なお、映画【八甲田山】にて《加山 雄三》が演じた倉石大尉は、のちの日露戦争において敵の直撃弾を受け爆死したとされています。
まずは知っておきたい明治陸軍の編成と階級
【八甲田山雪中行軍遭難事件】の主役が “軍隊” や “軍人” であることから、小説にしろ映画にしろ必然的に軍事用語が頻繁に出てきますので、それらについての最低限の知識がなければ内容をきっちり把握することが難しいかもしれません。
てことで、必要最低限のレベルとして、明治陸軍の「大まかな編成」と兵士の「階級」をまずは簡単に記しておくとしましょう。
下に貼った概略図を見て頂ければ一目瞭然だとは思いますが、あえてご説明するならば、明治期 ~ 昭和期(太平洋戦争終結まで)にかけての日本の軍隊は「陸軍」&「海軍」で構成されており、そのうち陸軍の編成は、まず各方面等にいくつかの巨大なグループ =「師団(しだん)」というものが設置され、それぞれの主要都市等に師団本部と長官(主に中将)を置いて統括していました。
事件当時は日本全国 12 コの師団が設置されており、当事件の当事者は、そのうち青森県弘前に本部を持つ本州最北方面を担っていた「陸軍第八師団」。
各師団内部も、一番上の「旅団(りょだん)」から一番下の「分隊(ぶんたい)」まで、さらにネズミ算的にグループ分けがなされ、それぞれその規模に見合った階級の長官なり隊長なりが各グループを指揮していたわけですが、そのあたりは下の「黒板」をご参照。
なお、末端の「分隊」は明治期の編成ではまだ存在していなかったようです。
ちなみに「陸軍第八師団」の内部編成は、まず弘前が拠点の「第四旅団」& 秋田が拠点の「第十六旅団」とに分かれ、さらに前者は青森が拠点の「青森歩兵第五連隊」& 弘前が拠点の「弘前歩兵第三十一連隊」からなり、後者は秋田が拠点の…
えー…
イラッとこられてそうなのでもうこれ以上はやめておきましょう。
とりあえず事件を起こした面々を一気に言ってしまえば、「陸軍第八師団」内の「第四旅団」内の「青森歩兵第五連隊」内の、訓練に参加したある一つの「中隊」です。マトリョーシカ人形かい…
が、「中隊」に付随して上部団体たる「大隊」の隊長や本部員も複数名同行したことから、雪中行軍隊すべてが「大隊」として扱われているケースもあり。
(この事件が語られる際、最も大きな問題点として最も取り上げられるのがコレ)
ちなみに、映画で《高倉 健》が隊長役を演じた “雪中行軍を成功させたもう一方の隊” は、同じ旅団に属す兄弟分、「弘前歩兵第三十一連隊」の特別編成隊(小隊規模)です。
この隊長、どうやら “ホンモノ” はあまりよろしくない人物だった可能性もありそうですが、そのあたりは後述にて。
明治陸軍の大まかな編成(概略図)
明治陸軍の階級
大将 ➡ 中将 ➡ 少将 ➡ 大佐 ➡ 中佐 ➡ 少佐 ➡ 大尉 ➡ 中尉 ➡ 少尉
★【下士官】
曹長 ➡ 軍曹 ➡ 伍長
※ 曹長には准士官的階級の「特務曹長」なるものもあり
★【一般兵】
上等兵 ➡ 一等卒 ➡ 二等卒
近代軍隊の階級制度は世界各国基本はどこも同じようなもの。
日本の旧陸軍に関して言えば、時代が進むにつれ、「上等兵」と「伍長」の間に「兵長」が設けられたり、「一等卒」や「二等卒」の階級名が「一等 “兵”」や「二等 “兵”」に変更されるなどもしましたが、事件当時(明治期)は概ね上図のような感じ。
下に貼り付けた【参考動画】は主に太平洋戦争時(昭和期)についてのものですが、上下関係に関する部分は明治や大正期もそう大差なく、旧帝国陸軍全体の階級制度を知る上ではそれなりには参考になるのではないでしょうか。
『斥候(せっこう)隊を派遣せよ!』
など、“軍隊モノ” ではよく「斥候」なる用語が登場しますが、これは
[敵情や地形などを 偵察・事前調査 するために本隊から先んじて派遣される単独兵または小人数の部隊(或いは行為そのもの)]
のことを言い、だいたいにおいては「下士官」を長として 5 ~ 10 名程度で編成されることが多いようです。
当然ながら “死” の確率は最も高し。
八甲田の事件では “敵” などは存在しないので、「斥候隊」はもっぱら “正しいルート & 目的地” を発見することだけがその目的でした。
【参考動画】
〖帝国陸軍の階級と給料をご紹介。大将クラスになると年収 3000 万円!漫画動画。太平洋戦争。アニメ。〗
ロシアとの戦争に突き進んだその背景は?
【八甲田山雪中行軍遭難事件】が起きたそもそもの原因は、ロシアといつ戦争になってもおかしくない一触即発的なムードがその背景にあったってこと。
でなければ、このような 寒地訓練 雪中訓練 などするはずもなかったからです。
日清戦争後、戦勝国日本と敗戦国清との間に締結された「下関条約」に対して、ロシア・フランス・ドイツ の三カ国がゴチャゴチャとイチャモンをつけてきた「三国干渉」を皮切りに、その後何やかんやと国際情勢がグラついたあげく、朝鮮・満州・イギリス なども絡めながら日本とロシアはいつ戦争になってもおかしくない状況にまで発展してしまったわけなんですが、この件に関してあまり深入りしてしまうと終りが見えません。
なので、どうしても詳しくお知りになりたい方(しっかり勉強したい方)は以下【参考動画】にてどうぞ。
【参考動画】(受験生向き?)
〖【明治時代】229 なぜ?日露戦争勃発の理由【日本史】〗
「青森歩兵第五連隊」の主な訓練目的
現実にロシアとの戦争が勃発し、ロシア軍が日本本土に攻め入ってくることになった場合、ロシア軍は一体どこにやって来るか…
という最悪のシナリオを想定した場合、当時最も可能性が高いとされたのが、青森県八戸(はちのへ)付近への上陸でした。
地図上最も手っ取り早そうなのは青森北部からの上陸ですが、このすぐ近くには強力な二つの連隊(青森第五連隊 & 弘前第三十一連隊)が駐屯していることから、手薄な八戸付近の沿岸(地図右サイド)に上陸するだろう、と考えられたのです。
で、その上陸に先立ち、まずロシア軍は日本艦船の往来を遮断するため津軽海峡と陸奥湾(青森上部)を封鎖し、さらには上2連隊が八戸まで進軍できぬよう、弘前・青森から八戸に通じる国道(地図 ✖ 印)を艦砲射撃等で破壊するにちがいない、とも推測されました。
「青森第五連隊」に課された雪中行軍は、まさにそうなった場合、最短かつ唯一の別ルートになるであろう “八甲田越え” で、物資等の輸送を含め、兵士たちが無事八戸まで辿り着けるかどうかを検証するのが最大の目的でした。
「青森第五連隊」と「弘前第三十一連隊」の予定ルート
「青森第五連隊」の行軍予定を “青森 → 田代 → 三本木”(地図赤矢印)としたものと、“田代からUターン” としたものがあってイマイチ定かではありませんが、「青森第五連隊」の連隊本部が、のち雪中行軍隊の所在確認を「三本木警察署」に電報でしていることから、一応可能な限りは「三本木」までは行くことになっていたものと思われます。
宿泊予定地の「田代」が “温泉地” と聞かされていたことから「青森第五連隊」の隊員達はみなルンルンの遠足気分になってしまったわけですが、その実態は、建物は一件のみしかなく、しかも冬場は何もかもが雪に閉ざされてしまう狭い山腹に位置するため、よほどその地に精通した者でない限り簡単に発見できるような場所ではなかったとか。(下写真参照)
で、そこに輪をかけ襲い来た史上最悪の大寒波…
見つかろうはずもありません。
深い雪で、もはや建物の全体像はよく分かりませんが、200 名以上もの隊員が、
『のんびり温泉に浸かってキュッと一杯♪』
が楽しめる環境だったかどうかは写真からも一目瞭然です。
「青森第五連隊」のメンバーで当地(田代新湯)のことを詳しく知っている者は皆無だったらしく、そのような場所を “宿泊予定地” としていたことからも、彼らの行軍計画がいかにずさんなものだったかがはっきりと見て取れます。
宿泊を予定していた「田代新湯(たしろしんゆ)」の一軒宿は、一般的には “大人数では泊まれぬ小さな宿” だったとされていますが、『もしかしたら泊まれたかも⁇』とした〖気になる記事〗もありますので気になる方はどうぞ。
写真で見る限りでは民家レベルの小さなサイズにしか思えませんが…
真実やいかに。
「弘前第三十一連隊」最大の疑惑
遭難した「青森第五連隊」は、もう一方の雪中行軍隊である「弘前第三十一連隊」の面々と八甲田山中にてすれ違う予定になっており、映画【八甲田山】でも「弘前第三十一連隊」の行軍隊長(演:高倉 健)が「青森第五連隊」の凍死者や銃を発見するといったシーンがありましたが、のちに軍が躍起になって隠そうとしたのがこの件に関してだったとされています。
実際の「弘前第三十一連隊」の行軍隊長(福島泰蔵 大尉)は、のち一部関係者の証言等から、“まだ生きている” 「青森第五連隊」の遭難者と遭遇していた可能性もアリとされ、“救助が必要” と認識しながらも、行軍を予定通り成功させたいという功名心から、見て見ぬ振り、つまりは “見殺し” にしたのでは、といったシャレにならぬ疑惑もあるやらないやら…
“軍機” だの “隠ぺい工作” だので記録等が極端に少なく、ヒーローなのか悪者なのかさっぱり分からぬ彼。
真相やいかに。
「青森第五連隊」の遭難原因その1
先に述べたように、目的が目的だったことから、少数精鋭で比較的身軽に行軍できた「弘前第三十一連隊」に比べ、「青森第五連隊」の雪中行軍隊は物資輸送の「そり隊」なども組み込んだ、ある程度以上の規模で編成せざるを得ませんでした。
そして、この重い荷物と「そり」が、まずは隊員たちの行軍を遅らせ、体力を奪い、あげくには命をも大きく削らすことになる雪濠での野外泊=「露営」をせざるを得ない状況へと追い込みました。
深い雪でまったく動かせなくなった「そり」は最終的にはすべて放棄され、搭載されていた重い荷物は兵士たちが背負わねばならなくなったわけですが、隊員たちの命を守ってくれるものは薄っぺらな軍服と、あまり用を足さぬお粗末なグッズしかなく、一泊二日 & 宿泊地が温泉地だということから、防寒対策や携行品のことなどさして気にもかけず、ほぼ全員がナメてかかっていたのは前述のごとし。
「青森第五連隊」の遭難原因その2
目的地「田代」に予定通り到達できなかった「青森第五連隊」は、やむなく雪の中で露営せざるを得なくなったわけですが、吹きっさらしの中で突っ立っているわけにもいかず、真っ先に全員を風雪から守ってくれる深い穴を掘らねばなりませんでした。
が、そのために必要なスコップは 21 人につきたったの 1 本。
つまりは、21 人が一晩明かせるだけの深い穴をスコップ 1 本で掘れって話です。
で、交代しながら頑張って掘ったはものの、このときに作った “中途半端な雪濠” が、これまた隊員たちの命を大きく縮める結果となりました。
これについては、のちの検証で『あと少し掘れば地面に達していたはず』とされており、それゆえ一部からは『この事件における最大のミス』などとも言われています。
『背丈さえ隠れりゃ十分』と浅はかに考えたのかもしれませんが、雪濠を作る場合、地面に到達するまで掘らねばならぬのは原則中の原則。
常識的に考えれば分かることですが、下が雪の状態で全員が暖を取れるだけのしっかりした焚火などできようはずはありません。
また、わずかばかりの火で鍋をくべようともしたようですが、すぐさま土台の雪が解け、鍋がこぼれ、食事すらもろくにとることができなかったとされています。
「青森第五連隊」の面々は、そのほとんどが “おにぎりを凍らせない携行方法” など知らず、カチコチに凍った石のようなおにぎりは、もはや邪魔なだけの “お荷物” でしかありませんでした。
凍死せぬよう突っ立ったまま眠ることは許されず、そればかりか、凍傷にならぬよう(血の巡りを止めぬよう)手足すらも延々動かし続けねばなりません。
隊員たちは狭い雪穴の中で身を寄せ合いながらこれにひたすら耐え続けましたが、ここで “暖” と “食事” にありつけなかったことが極めて大きな 疲労・睡眠不足・栄養不足 を招き、それが判断力をも含めたのちの行軍能力に致命的なダメージを与えた、とされています。
「青森第五連隊」の遭難原因その3
『これ以上はもうムリだ!引き返そう!』
…と一度は決めた撤収が、周囲の意見に押し流され、再び行軍続行に転じてしまったのも大きな過ちだったとされています。
“Uターン” はすなわち “失敗” を意味し、命よりもプライドや出世欲を優先させた一部中堅どころが帰営することに猛反発したのでした。
同行した上司(大隊長=山口 鋠(やまぐち しん)少佐)にお株を奪われ、存在感を失っていった部下(中隊長&雪中行軍隊リーダー=神成 文吉(かんなり ぶんきち)大尉)の不甲斐なさはつとに有名ですが、『数百名の命を預かっている』といった自覚を持ち、周囲の意見に屈しない強いリーダーシップを彼が持ちあわせていたならば、ここまでの大事件に至らなかったであろうことはまず間違いありません。
頭は良いが決断力無き草食課長 vs 頭は悪いが仕切るの大好き肉食部長…
みなさんもどなたかの顔がふと思い浮かびませんか?
組織社会における「中間管理職」のあるべき姿が語られる際、“反面教師” として必ずといっていいほど持ち出されるのが、この事件におけるこの二人です。
山口少佐の最期
などと映画内でも叫ばれ、生死をさまよいつつも部下達に手厚く守られながらなんとか生還できた山口少佐。
映画のラストシーンからも、その最期は “責任をとり病室内でピストル自殺した” と一般的には思われているようですが、当時の記録等からは ”重度の凍傷で引き金など引けなかったはず” とされており、また公式発表としても死因は「心臓麻痺」。
が、死因は諸説存在し、軍上層部に責任を押し付けられたあげく口封じに殺された、とする “暗殺説” などもありますが、どれも決め手となるだけの証拠はなく未だ真相は闇の中。
神成大尉の最期(Wikipedia より抜粋)
11 時頃、後藤伍長からわずか 100 メートル後方で発見されるが、既に全身が凍り付いており、帽子も手袋も身に付けておらず、首まで雪に埋まっていたという。
腕が凍り付いており、救命のため施そうとした気付け薬の注射の針が通らず、折れるほどであった。
それでも口を開けて針を刺したところ、一言何かを言ったとも言われる。
だが、手当ての甲斐無くそのまま再度昏睡し、二度と目覚めることはなかった。
満 32 歳没。
救援隊は神成大尉をそこに置いて一度帰還し、29 日に遺体を収容した。
「弘前歩兵第三十一連隊」の雪中行軍について
大事件後の自粛ムードに加え、軍による各種隠ぺい工作や報道規制等とも相まって公の舞台からすっかり葬られてしまった「弘前第三十一連隊」の面々ですが、“距離” も “日数” も「青森第五連隊」より遥かに長い行軍計画が立てられ、それを一人の死者も出さずに見事やってのけたのですから、本来ならば華々しく脚光を浴びて然るべきです。
が、彼らの成功の裏ではルート上の村民たちが多大な犠牲を強いられたとも言われており、であれば “拍手喝采” とはいきません。
小説や映画でも描かれているように、「弘前隊」は行軍にあたって雪山に精通した地元の村人たちを「案内人」として使うなどしましたが、実際は彼らの意思などまったく無視し、軍の命令で強制的に先導させていたことが後年関係者の証言等によりほぼ明らかとなっています。
実際の案内人の役割は、隊から犠牲者を出さないため無理やり地雷原を進まされた、まさに “身代わり”。
過酷な状況の中で酷使された結果、彼らは全員が重度の凍傷を患ったそうですが、これといった補償もなされず、厳しい守秘義務を背負ったまま長きに渡り苦しんだとされています。
また、宿泊場所として指定された民家なども、兵士らをもてなす必要から膨大な出費を余儀なくされたと言われており、これらは小説や映画から伝わるニュアンスとは大きくかけ離れているかもしれません。
読むのに少々骨は折れますが、「弘前第三十一連隊」についてをより詳しくお知りになりたい方にはオススメ。
【『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記】(弘前市立弘前図書館 資料)
最後に
【八甲田山雪中行軍遭難事件】から既に 100 年以上もが経過し、また小説【八甲田山 死の彷徨】や映画【八甲田山】もすっかり “年代物” と化してしまった今では、この事件を全くご存知ないって方も多いかもしれません。
地元の方ですら、特に若者などは銅像のある地を “心霊スポット” としてしか認識していない方がほとんどだとか。
今再びロシアが何を仕掛けてくるか分からぬ危険な世の中となっていますが、現在日本の国を守って下さっている「陸上自衛隊」の方々の寒地装備等は、旧「青森歩兵第五連隊」の方々の尊い犠牲を教訓に改良を重ねてきたものだとされています。
英霊たちへの感謝 & 御冥福を祈ると共に、風化だけは避けたいこの事件…
あまりよくご存知ない方は、“小説” なり “映画” なりを通して少しでも知って頂けたらな、と思いつつ当記事を作成し、また各種ご案内等も貼り付けさせて頂きました。
この機会にぜひ。
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【ドキュメンタリー 予告編】
VOD(動画配信サービス)各社のご案内
別途ご自身にてご確認下さい。
【参考動画】
〖ふるさと歴史館シリーズ05「八甲田雪中行軍 生還者の証言」ATV 青森テレビ 公式チャンネル〗
〖八甲田山を行く「雪中行軍遭難事件」の現場 ~ジャーナリスト井上和彦 公式YouTube「ミリオタチャンネル」~〗
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